「闇を照らす光キリスト」
今日は「闇を照らす光、キリスト」というタイトルでお話しします。
聖書のことばに、「わたし(イエス・キリスト)は光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです」ということばがあります。3つのポイントでお話ししましょう。
聖書の語る神、いのちの造り主
まず、このことばを語っているイエス・キリストについてです。多くの方はイエス・キリストと言えば道徳家でしょとか、キリスト教の開祖だよねとか、立派な人物だよねというふうには思ってくださってると思うんです。でも、聖書はイエス・キリストについて、約束の救い主、人となられた神って言ってるんです。
ちょっと、2016年のはじめを思い出してほしいんですが、皆さん年賀状を受け取られたと思うんですね。実は、2004年の年賀状のデザインは、サルが一匹、温泉に入っている切手デザインでした。でも今年2016年は、親ザルと子ザルが2匹で温泉に入っているデザインになっているんです。桶も2つになってました。もうちょっと振り返ると、2003年は羊が編み棒を持っているデザインでした。でも12年後の2015年は、その羊がマフラーを巻いてるんですね。日本郵便株式会社の切手はがき部の社員がデザインしているそうですけど、ストーリーがあるな、人を楽しませてくれるなと思うんです。
彼らのストーリー性、デザインは秀逸なものだと思いますね。12年の長い年月をかけて、同じテーマがストーリーにのっとって描かれているというのは、美しいなと思うのですが、聖書は、このイエス・キリストの時代よりも1500年も前の時代から書き続けられている本なんです。そしてその聖書は、約束しているわけです。あなたがたのために救い主がやって来る、これは一つの物語、一つのテーマをさまざまな角度からお互いを知らない人々が書いているんですね。
この聖書の著者は神です。この聖書の著者神が、人となってこの世界に来られたというのが、わたし、イエス・キリストだと言っているわけです。私たち日本人は、この神というお方がよくわかりません。人間が作った宗教の神々ならたくさん知っているんですが、聖書の語っている神は、いのちの造り主なんですね。
いのちを造られた神が確かにおられる
王様ペンギンという、南極に住む動物がいます。彼らの目の構造は、氷の上での生活に適応しています。キラキラした氷のまぶしさにも、その目は耐えることができるんですね。
でも、同時に彼らは餌を獲るために、暗い海の中を潜っていきます。その中でもよく見ることができるんですね。光の世界と闇の世界の2つの世界を行ったり来たりしているそのペンギンの目は、他の鳥たちとは全く違うというんです。サングラスも要りませんし、サーチライトも要らないこのペンギンの目のしくみは、小さな四角い穴の瞳孔が大きく開いたり縮まったりしながら調節しているというんです。
今、研究者たちがこの王様ペンギンの目を研究しています。白内障の早期発見に役立てたいとか、視力障碍を持つ人たちの生活に役立つコンタクトレンズを開発したいと思っているそうです。暗いところで見えにくいという夜盲症の人たち、また、明るいところが見えにくいという昼盲症の人たち、彼らの生活に役立つものをこの王様ペンギンの目を参考にして作っていきたいというんですね。このようなコンタクトレンズができたら便利だと思います。そのようなコンタクトレンズができたら人類の英知に感動すると思います。偶然はできませんよね。とすれば、この王様ペンギンの目も偶然にはできません。
聖書は私たちの周りにある自然界、いのち、その神秘を見たとき、世界を造られた真の神がおられると分かるのではないかと私たちに語りかけます。私たちが考え出した神々ではなく、私たちのいのちをお造りになった神がおられます。これが、イエス・キリスト、「わたしは」という方なんです。
世に来られたイエス・キリスト
2つ目のポイントを考えてみましょう。「わたしは、世に来ました」とイエス・キリストは語っているんです。
先日あるテレビ番組で、お笑い芸人の又吉直樹という人が出演し、彼の両親がクリスチャンであるということを言っていました。小さいころ、食事前にはお祈りしていたそうですね。そのときに、少年、又吉直樹君は、目を開けたら父親も目を開けてて、自分を変顔で笑わせたと言っておられました。この又吉家のルーツをたどると、この又吉直樹のおじいさん、又吉宝善さんが敬虔なクリスチャンだったようです。
彼は沖縄からハワイに出稼ぎに行って苦労するんですが、その沖縄の人たちの中でコミュニティを作って彼らを助けていくんですね。NHKがその又吉宝善さんのお世話になった人のところに、二世、三世のところにインタビューに行きました。そして、この宝善さんはどんな人でしたか、と聞いたら、皆こんな風に言うんです。あの人が行くところはいつも不幸な人、困っている人のところだった。私たちが訪問するとき、自分の心を喜ばせるところ、自分が楽しいところ、快感を味わえるところに行くのではないでしょうか。元気になれるところが、私たちは好きですよね。でも、人格者は不幸な人、困っている人のところに行ったというんです。
イエス・キリストはこの世に来ました。このお方がこの世に来たとき、どこを訪問されたでしょう。一人息子を失ったやもめのところです。夫と5回別れ、6人目と同棲中の女です。体にハンデキャップを持っている人のところです。遊女や取税人といった、コミュニティから排除されている人のところです。悲しんでいる人のところ、嘆いている人のところ、苦しんでいる人のところにキリストは訪問されました。聖書って不思議だなって思うんです。派手なところ、きれいなところ、立派なところを描き出しているんではなく、暗闇、悲しみ、苦しみのところを描き出しながら、そこに来てくださったイエス・キリストについて書いているんです。
イエス・キリストは世に来ました。そして、苦しんでいる人のところに行かれたんです。今日、苦しんでいる方がおられたら是非覚えてください。キリストが訪問されるところは、そのような方のところです。
希望の光キリスト
3つ目のポイントを考えてみましょう。キリストが来られたのは、「だれもやみの中にとどまることがないため」、と聖書は教えています。
人は価値がある存在です。でも同時に、闇の中にいる、と聖書は教えてるんです。私たちは神から離れた闇の中にいるので、恐れに支配されてはいませんか。経済面、健康面、人間関係で不安を抱えています。むなしさに支配されていませんか。人生の意味、私の価値がわからなくなっている方が多いのではないでしょうか。悲しみに支配されていませんか。どんなに愛し合っていても、死に打ち勝つことができないのではないでしょうか。実にそれが私たち人間、闇の中にいる存在なんです。
でもキリストは、そんな闇の中にいる私たちを照らす希望の光として来てくださり、誰も闇の中にとどまることのないため私は来たと教えてくれたんです。
キリストにある希望
スティーブ・ジョブズという人がいます。彼は人生の最後にこんな風に言っています。「私はビジネスの世界で成功の頂点に君臨した。ほかの人の目には私の人生は成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、仕事を除くと喜びが少ない人生だった。人生の終わりには富など私の積み上げてきた人生の単なる事実でしかない」。
なかなかこんなふうに言える人いないと思うんですが、彼が死の間際に覚えたことは、富などなんの役にも立たないということでした。成功、地位、名誉、喜び、それらのものを私たちは求めます。でも、それらのものを得たと思ったら、失っていく。それが私たち人間ではないでしょうか。
聖書は、イエス・キリストを信じる者は、闇の中にとどまることはない、希望がある、絶望から希望に、悲しみから喜びに、憂いを踊りに代える方がイエス・キリストです。この方に信頼する方となってください。
あなたのために来てくださったキリストは、今日、あなたを招いておられます。このお方を信じることをおすすめしたいと思います。