「悪の存在と神の存在」
彼は学生時代、数学が大の苦手で、留年を繰り返していたのです。ところが、ある日の数学の授業中、教師が解けなかった問題を偶然、解いてしまうんですね。それがきっかけで、数学を勉強するのが楽しくなり、その後、成績がぐんぐん伸びていったっていうんです。アドラーは、後にこう語っています。「あの経験は、特別な才能とか、生まれながらの才能、という思い込みの間違いを私に教えてくれた」。
さて、現代人の思い込みのひとつに、神なんかいない、という考えがあります。そして、その根拠のひとつに、もし、善にして愛なる完全な神様がいるなら、どうして世の中にひどい悪や悲惨な戦争があるのか、という疑問があるんです。
なぜ悪が存在するのか
もし、神がいるなら、どうして悪を止めないのか。この世界の不公平を、どうして黙って見過ごしているのか。彼にはやる気がないのか、いや、存在しないのではないか、というわけです。
それに対して、聖書はどう語っているんでしょう。聖書の中に、こう書いてあります。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私達のすべての咎を彼に負わせた。
ここから、3つのポイントでお話ししたいと思います。人に自由意志が与えられた
第一に、神は人間を、自由意志を持つものとして造られた、ということです。
神様は最初の人間アダムを、善でも悪でもどちらでも選べる、自由意志を持つものとしてお造りになられたんです。この自由意志は、アダムの子孫である私たちにも受け継がれていますね。ところで、自由意志を与えられた理由は何でしょう。生きているという実感を得るためだと思うんですね。
先日、「AiphaGo(アルファ碁)」という人工知能のコンピュータが、世界的な囲碁の第一人者、李世乭(リ・セドル)氏と五番勝負をしましたが、なんと、コンピュータが4勝1敗で圧勝したのです。その結果、AlphaGoは賞金、100万$を獲得しました。しかし、なんの喜びも感激も、人工知能にはありません。人格が無いからなんです。AlphaGoは、ただ演算をして、結果を出しただけです。だから、勝っても負けても何も感じません。しかし、李世乭氏は違います。もうコンピュータ相手の対局は二度としたくない、と感想を漏らしていました。なぜなら、コンピュータには、疲れも、焦りも、うろたえも、睡眠不足も無いからです。
しかし、李世乭氏は、この対局を受ける自由もあり、断る自由もありました。そして、自由意志に基づいて受けて立った結果、負けたときには大きなショックがあり、ひとつ勝ったときには喜びが湧いてきたんですね。このように自分の意思を持って生きるからこそ、嬉悲こもごも、生きてるんだ!という実感があるんです。
さらに、自由意志があることで、人は愛を経験できます。愛こそは、自由意志に基づく態度です。強制や、脅迫されるような関係の中に、愛は生まれません。断ることも、受け入れることもできる関係の中で初めて、人は、愛する喜び、愛される喜びを経験できるんですね。神様が人間に自由意志をお与えになったのは、神と人との愛を、人間に経験させるためなんです。
人間は神から離れる選択をした
第二に、人はその自由を用いて、神を捨てることを選び取った、という事実です。それによって、神という絶対的な基準を見失い、みな、自分中心の考えで生きるものに成り下がってしまったんです。
ところで、今日、日本には歯科医院が約7万件あるそうです。この数が多いのか少ないのかは、数字を見ているだけでは分かりませんね。そこで、別の物差しを当てるとよいのです。それは、全国どこにでも見つけることができる、コンビニの数です。どれぐらいあるんでしょうか。なんと、5万店舗なんです。つまり、歯科医院は、全国どこにでも見つけることのできるコンビニの、140%もあるんです。ここから、歯科医院は多すぎるということが分かるんですね。それは、基準となる物差しを当てることで見えてくる現実なんです。
それと同じように、聖書こそは、人間の本質を明らかにする、神の基準なのです。先ほど読んだ聖書のことばに、「私たちは羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」とありました。人間は、羊飼いという保護者の下から離れて、自分かってな、自己中心主義、自分さえ良ければよい、という考えで生きるようになった。これが、この世に悪が横行している理由なのです。
神はいないという誤解から不正が生まれる
いま、世界中のスポーツ界を揺るがしている問題に、ドーピングがあります。ドーピングというのは、薬物を使用したりして、スポーツ競技の運動能力を飛躍的に向上させることです。そして、ドーピングには副作用があるんですね。薬物の場合、治療に比べて使用量が非常に多くなるからです。その結果、後遺症を引きずったり、最悪の場合、命を落とすこともあるんです。
そして、ある大学の保健学部が、日本の体育会系の学生たちにアンケートをとりました。その中に、「もし、あなたがドーピングすれば必ず勝つことができ、しかも、決して発覚することがないなら、あなたはどうしますか」という質問があったのです。過半数が、「使うかもしれない」と回答していました。ポイントは「決してばれない」という一点です。そんなものはないのですが、もし、ばれないならそれをして、手っ取り早く栄誉を得たい、というのです。私はそれを読んで、正直だなあ、と思いました。
ところで、私たち一般人は、ドーピングをすることはありませんが、ばれないだろう、と考えて、嘘や不正やごまかしをしたことはありませんか。この世の不正がはびこる理由のひとつは、私たちをご覧になり、全てを見通している神などない、と考えるからなのです。
神は人を見捨てられない
しかし、第三に、神はそれでも、人間を決して見捨てることなく、今も働き続けておられるということです。なぜなら、聖書は、私たち人間のすべての咎をキリストに負わせた、と語っているからです。
ブラジルの国民的英雄に、ペレというサッカー選手がいます。サッカーの王様といわれた、生ける伝説的なスターですよね。このブラジルで、大変なインフレが起こったとき、経済不安で国中が荒れ果て、治安が悪くなりました。白昼堂々、ギャングがやりたい放題の乱暴を働くんです。
あるとき、ペレの乗っていた高級車がギャングに取り囲まれたのです。運転手のこめかみにピストルが向けられ、金を出せ、と脅されたんですね。そのとき、後部座席に座っていたペレは一言、こう言ったそうです。「ペレだが」。ギャングはすぐにピストルをおろし、謝り倒して退散したそうです、国民の英雄を襲ったことが分かれば、自分たちの命が危なくなる、と考えたからです。
しかし、人となったイエス・キリストは、高級車や、威圧感をもたらすものを何ひとつ持たずに、この世に来られました。そして、理不尽なでっちあげ裁判を黙って受け、十字架について下さったのです。
それは、この世で理不尽な扱い、不条理な人生、不当な仕打ちを受けている人々に寄り添うため、そして、それらのすべての人々の罪を負って、神の刑罰を引き受けるためだったのです。苦難についての神の答えは、あなたのために苦しみ、あなたのために死んで下さったかた、そしてよみがえられたイエス・キリストご自身なのです。
どうぞ、あなたもキリストを心の中に受け入れて下さい。心から、お勧めしたいと思います。