旧約聖書
「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」
(詩篇28:7)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.835 2016年3月27日

「創造主の前に出たサファテ投手」

おはようございます、那須清志です!

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先日、知人の紹介でプロ野球選手のサファテ投手と会い、一緒に食事をする機会が与えられました。彼は、日本プロ野球における連続イニング奪三振記録保持者で、ソフトバンク・ホークスの2年連続優勝にクローザーとして貢献しました。身長193cm、体重102kg、大きくて、腕っ節の強い彼が、日本に来てからクリスチャンになったというのです。
登板のときにマウンドで祈っている姿をテレビでよく見かけます。神を信じるなんて、弱い者がすることだと思っている人には意外に感じられるかもしれません。しかし、私は証言します。彼は見るからに強そうな人です。言葉も力強く、話出したら止まりません。ただ、天地を造られた神の前にはどんな人間もその力を誇れるものではないのです。
彼は、完全な清さと正義の神の前に「自らの弱さ」を正直に認め、聖書のことばに素直に耳を傾けるやわらかい心を持っています。彼の本当の強さは「神を信頼することから来るものだ」とわかりました。
 今日は、サファテ選手との出会いを通じて感じさせられたことを三つお話したいと思います。

創造主という存在

 一つ目は、魂の親である創造主を知っていることの幸いです。
 サファテ選手は、子どもの頃、教会に行くのはクリスマスとイースターのときぐらいだったそうです。それもプレゼント目当てという感じです。
でも、この世界や自分を造られた神さまの存在は信じていました。それを聞いて「うらやましいなあ」と思ったんです。欧米の人たちは、いちいち創造主の存在を説明しなくても、知っていたり、認めていたりする人が多いからです。
日本人にとっては難しいところですね。私たちには「神」よりも「天」と言われた方がピンと来るのかもしれません。
 明治時代のベストセラーだった「学問のすすめ」の冒頭で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われています。その「天」です。著者福沢諭吉は「神」というよりも「天」というふうに言った方が日本人に理解されやすいと知っていたのでしょう。このことばの後には「と言へり」がついていて、正確な意味は「創造主なる神が分け隔てなく人間を造られた、と欧米では言われている」ということなのです。

帰ってくるのを待っている方

 イエスが語ったたとえ話に、神と人間との関係を見事に表した「放蕩息子のたとえ」があります。神を表すお父さんの元から離れて、好き放題の行き方をしていた弟息子。この息子が人間を表します。でも、我に返ったとき息子は、お父さんの元に帰ろうと決心したんです。
この息子はお父さんとの関係は切れていましたが、お父さんの存在は認めていました。自分を愛しているお父さんのことを思い出したのです。
でも多くの日本人は、自分の魂を造ったお父さん、すなわち創造主なる神を思い出せないんです。自分の愚かさに気づいても、帰る場所がわからないのです。 聖書は語ります。「私たちには帰る場所がある。」と。「私たちはどこからともなく現れた偶然の産物ではなく、神によって愛をもって造られたもので、帰ってくるのを待たれている。」と。

満たされない日々

 サファテ選手と話して感じた二つめは、「自分の弱さを認めて、神の前にもっていくことの幸い」です。
実は、神の存在を認めたり、信じたりすることと、神といい関係を保って生きることとは別です。サファテ選手の表現で言えば、彼は「パーティ大学」で生活が荒れてきたそうです。「パーティ」は大学の名前ではありません。パーティ…いわゆる宴会やコンパばかりに明け暮れる大学生活のことです。
アメリカ大リーグにスカウトされ、実力を表し、有名になり、お金も入り、すばらしい女性と結婚し、子どもも与えられ、自分の願っていた通りの、自分の心のおもむくままの生活をしていたそうです。しかし、今振り返ると、心の底から喜びや平安を持っていたわけではなかったというのです。
どんなにお酒を飲んでも満たされない、どんなに好きなものを手に入れても満たされない、さまざなま問題が出てきましたが、目をそむけ続け…、そんな中で決まったのが日本行きの話でした。

訪れた転機

広島カープに在籍し、派手な生活を日本に来てからも続けていた2011年の夏、転機が訪れました。
奥さんが出産のためアメリカに帰国していたので、一人で家にいたときに、言いようもない寂しさに襲われました。そして、奥さんが置いていった聖書を手に取ったのです。今まで聞いてきた聖書の話を思い起こしました。同時に、自分が今まで行ってきた数々の愚かさを思い出しました。「このままではだめだ。」と思い、神の前に涙を流して、ひざまづいて祈ったのです。
2m近い、100キロを超えた大の大人が…、テレビで何度もヒーローとして脚光を浴びた男が、涙を流して、ひざまづいた姿を想像できるでしょうか?しかし、創造主の前に引き出された時の姿は誰もがこのようです。このときから彼の人生は変わりました。
イエス・キリストを救い主として受け入れ、弱さを覆い、励ましてくださる神と共に歩む人生に入ったのです。まさにイエスが語られた有名なことば「悲しむ者は幸いである。その人は慰められる」を体験したのです。 

本当の価値が分からないことがある

 サファテ選手と会って感じた三つ目は、神のわざのすごさと人間の鈍感さ、ということです。
 食事の後、部屋に戻るためにみんなでホテルのロビーを歩いていると、ファンの人が彼を見つけて駆け寄ってくるのです。サインや握手を求めるは、一緒に写真をとることをお願いするは…、普段見ることのない光景でした。それを見て、改めて、自分はこんな人と食事をして、いろいろな話ができたんだなあ、と思い、自分の大きな特権に預かったことを身にしみて感じたのです。
 私たちは自分が見たもの、聞いたもの、経験したもののすごさに気がつかない、ということが時折あるんじゃないでしょうか?最初はなかなかピンと来なくて、後からその価値がわかってくるということがあるものですね。

イエスとの出会いで人生が変わる

実は、聖書が語る「イエス・キリストの福音」も同じことが言えます。聖書は、この宇宙・万物を造られた方が人の姿をとって人間の世界に来られたというのです。
有名人が自分と時間を過ごしたというすごさでさえピンと来ないんですから、ましてや神のなさったことをなかなか理科できなくても仕方ありません。
神は私たち人間のために時間をとるどころか、私たちの代わりに苦しみ、命を与えるほどに愛しているいうのです。これが本当だったらとんでもないことです。いや、聖書がこれが本当だ、と冷静に語っています。
今はまだピンとこなくても聖書のメッセージを続けて聞いてください。これほど今の世界に影響を与えた聖書が目の前にあり、イエスとの出会いによって人生が変わり、永遠の救いを手にした人々が多くいるという事実から目を離さないでいただきたいのです。必ず神さまが理解を与えてくださると信じています。 

主は私の力

 最後にサファテ選手が、いつも心に留めている聖書のことばをご紹介します。

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。

詩篇28:7のことばです。彼のサインには、いつも英語で「詩篇28:7」と書いています。
 みなさんも、是非、生きて働かれる神の力を体験してください。造り主なる神を見出し、自分の弱さを正直にこの方の前に持ってきて、神が用意された救い主なるイエスを信頼してくださるように、心からお勧めいたします。

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