新約聖書
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
(ヘブル11:6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.822 2015年12月27日

「あなたを造られた神の喜び」

おはようございます、那須清志です!

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いよいよ2015年最後の週となりました。年末になると、今年の10大ニュースとか、10大事件などという一年を振り返る話題がマスコミでよく取り上げられます。個人の生活でも、一年を振り返ると、忘れられない出来事が多くあったことと思います。もし今年、創造主に出会い、個人的な救い主としてイエス・キリストを受け入れた方がおられたら、そのことはきっと今年の喜びのニュースの上位にあることでしょう。

神は何を喜ばれるか

人間を造られた創造主は、人間に喜怒哀楽の感情を与えられました。そして、動物より深いレベルで、神は喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりするのです。人間に感情を与えられた創造主は、より深いレベルで喜怒哀楽の感情を持っておられることを聖書は語ります。これは大いなる神を人間のレベルに引き下げるということではありません。
感情豊かな人間がいるように、感情を備えた神は、造られたどんなものよりも感情豊かな方なのです。ではこの神は何を喜ばれると思いますか。今日は「あなたを造られた神の喜び」ということを考えていきましょう。

神は信仰を喜ばれる

まず、次のような聖書のことばがあります。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

これを言いかえれば、神は信仰を喜ばれる、というのです。ここでいう信仰とは、日本人の多くが考える、神さまに喜ばれるように時間をかけたり、お金を捧げたり、たくさん奉仕をする、という意味ではありません。また、まわりの人々を愛して仕えて良い行いをする、という意味でもありません。立派な人間にならなければ、神は喜んでくださらない、ということを言いたいのではないのです。立派な人間になれれば、それに越したことはないのですが、神から離れた人間は、神に対しても人に対しても、完全な良い行いをすることはできないのです。
ここでいう神に対する信仰というのは、力ない、何もできない自分でも、いつも変わらず愛してくださる愛してくださる神に信頼していく、という意味です。私たちが完全になることに気を遣うのではなく、私たちに対する神の愛が完全であることに、気づくように勧められているのです。

神がおられる

先ほどの聖書のことばの続きには、次のようにあります。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

次に考えるのは、神がおられるということです。
あなたを造られた創造主がいることを知り、その方に信頼するように勧められています。

創造主の知恵に驚嘆したファーブル

今からちょうど百年前の1915年に亡くなった、昆虫学者ファーブルは、生涯を通じて昆虫を研究しました。そして研究すればするほど、驚くべき昆虫の生態がわかってきたのです。そして昆虫に注がれた創造主の知恵に驚嘆せざるを得なかったのです。進化論を提唱したダ―ウインとも交流がありましたが、進化論についてはきっぱりと反対意見を述べています。彼の方は長らく、フランスでは、子供たちのための教科書として用いられていました。その中には、創造主としての神、万物を支えておられる神についても何度も語られていたそうです。ファーブルは自分の信仰について、次のように語っています。
「神なしには私は何も知りえない。神なしではすべては暗闇だ。どの時代にもマニアはいるものだ。私は無神論者をマニアだと思っている。それは時代がもたらす病だ。私から神に対する信仰を奪うよりも、私から皮を剥ぐほうがはるかに簡単だ。」と。

人と神との関係回復が神の喜び

これまで考えてこなかった人も、意識してこなかった人も、あなたの創造された神のことを心に思い浮かべて、考えてみてください。あなたが神に近づこうとするならば、神もあなたに近づいてくださいます。いや、私たちがこれまで気づかなかっただけで、神は私たちの近くにおられることに気づくことでしょう。
神との関係が回復することは、私たちにとっても喜びですが、それ以上に神にとっても喜びである、というのです。あなたはひとりぼっちじゃない、あなたを愛し、心に留めておられる神がおられるのです。

罪は神にしか解決できない

最後に、神を求める者には、神は報いてくださる方だ、ということです。
神は私たちに自分でできることを肩代わりされるような甘やかす神ではありません。机にも着かない、教科書を開こうともしない、先生の言うことを聴こうともしない人が、勉強ができるようにしてください、と神に求めても、その要求に応えられるような方ではありません。でも、この世界には神にしか解決できない事もあります。最大の問題は、神との間にそびえ立つ、罪の壁です。神から離れた人間は、神の前にも不完全になり、人間同士でも不完全になり、罪の結果をあちこちで刈り取っているのです。
しかし、神はこの最大の問題を解決するために、立ち上がってくださいました。救い主イエスをこの地上に遣わし、十字架によって罪の刑罰を人間の代わりに受けてくださり、イエスを信じる者に罪の赦しをもたらそうとされました。その救いが完全なことを示すために、イエスは死後三日目に、神によって復活させられ、新しい命の存在を人間に示されたのです。

神は解決を与えて下さる

実は今年、私の父親が亡くなりました。この地上での別れは悲しいものですが、一つの望みも与えられました。それは父親が創造主の御許に行くことができた、ということです。父は長い間、イエスが救い主であることを認めませんでした。しかし、病魔に侵され、これまでできていた自由をどんどん失っていくにつれて、自分の死について考えざるをえなくなったのです。そして人間にはどうすることもできない、罪と死の問題の解決を神が持っておられることを知り、その解決方法を受け入れたのです。
父が神に求めた時、神は応えてくださいました。それは神への私の願いでもありました。神は私たちの弱さをご存知で、私たちが神に信頼する時、神は喜んで解決を与えてくださるのです。
百年前に亡くなったファーブルの墓石には、ラテン語で次のように書いているそうです。
「死は終わりではない。より高貴な生への入り口である。」
この世界の次には神が用意してくださった新しい世界がある。そこへ私たちが入ることを神は心から願っておられます。それを私たちが願い、求め、得る時に神は心から喜ばれるのです。ぜひ救い主イエス・キリストを心から信頼して、永遠のいのちを獲得してください。心からお勧めいたします。

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