新約聖書
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです。」
(ルカ18:10-14)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.823 2016年1月3日

「人の罪深さに比例する神の恵みの深さ」

あけましておめでとうございます、高原剛一郎です!

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さて、去年の秋から、にわかに人気が出たスポーツ競技があります。ラグビーですね。ワールドカップで日本が史上初3勝をあげ、しかも世界ランキング4位の南アフリカに大金星をあげたからです。
中でも、五郎丸選手のキックの正確さは見事でした。そして、彼がキックする前に必ずやるポーズが、ちまたで流行ったのですね。いわゆる、「五郎丸ポーズ」とか「拝みポーズ」というやつです。彼はボールをける前に、両手を合わせて人差し指を突き立てる儀式をするのです。
実は、あの動作はメンタルトレーナーのアドバイスで始めたものなんだそうです。人間というのは普段の練習中ならできることが、いざ本番になるとできなくなってしまうことが多いですね。それは、緊張のあまり平常心を失ってしまうからです。
では、どのようにして平常心を保てばよいのでしょう。本番の一歩を踏み出す前に、決まりきった型の動作をすることを習慣づけるとよいというのです。型そのものは単純な動きですから、ミスをすることはありません。そして、ミスなくいつも道理の動作から入ると、その動作の後にすることもいつも通りにできるというのですね。

神様への祈り

ところで、クリスチャンも何か真剣勝負に出るとき、必ずすることがあります。それは、祈りです。
ただし、祈りは儀式でもなければ、パフォーマンスでもありません。全知全能の神との交わりです。弱さを痛感する時、強さの極みである全能の神様を呼び求め、神の助けを再認識するということなのですね。
今日は、神様への祈りについてキリストが語られたところをご紹介いたしましょう。

宮で祈るふたりの人

これは、キリストのたとえ話です。

ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです。

パリサイ人と取税人の違い

品行方正にして社会のエリート、宗教生活にも厳格だと認められていたパリサイ人は、神殿で一見敬虔に祈っているように見えます。しかし、仕草は祈りですが実際は神に語りかけていたのではなかったのです。彼は、周囲のできていない人々と自分を比べて自慢しているだけなのです。
彼が語りかけている相手は、神ではなくもう一人の自分なのです。宗教というスタイルの中で自己満足していますが、本当に神の前に立っているのではないのです。
それに対して、当時、裏切り者のレッテルを貼られていた取税人の祈りは、祈りというよりも叫びでした。彼の祈りに3つのポイントがあると思います。

自分の姿が見えない

第一に、自分自身を神の前に罪人であると正直に認めているということです。
あるご夫妻の話です。妻が目玉焼きを作っていると、突然夫がキッチンに入ってきて叫び始めたというのですね。
「君、もっと気をつけて焼いてよ。あー!だめだめ。一度にたくさん作りすぎだよ!第一広げすぎているし、早くひっくり返して、あぁ形が崩れてしまっているよ!不注意なんだから、全く。早くひっくり返さないと焦げちゃうよ!塩忘れてない?ちゃんと塩使ってよ、塩!」
すると妻は、夫をにらみつけて言いました。
「一体何なのよ!私が目玉焼きの一つや二つ、焼けないとでも思っているの!」
すると夫は、穏やかに言いました。
「僕が運転しているとき、どんな気持ちか君に教えたかったんだよ。」
どうやら妻は助手席から、のべつ幕なしに、夫の運転を注意し続けてきたのでしょうね。自分が正しいと思っていることを、逆にされたら不愉快でしょ、と言いたいようです。自分が基準になっていると、自分の姿が客観的に見えなくなるからです。

自分の罪を認める

しかし、本当の人生の審判者は神です。聖書の中に、神があなたを調べても大丈夫か、という言葉があります。
神様の前には、いかなる人も汚れ果てた罪人なのです。取税人はそれをよくわかっていました。なので、胸を打ち叩きながら、「こんな罪人の私をあわれんでください。」と言ったのです。

罪を悲しむ

第二に、彼はその罪を居直るのではなく、悲しんだということです。
かれは、神殿から遠く離れて立ちました。神に近づく資格は自分の中にはないと、分かっていたからです。目を天に向けようともせずに、彼は祈りました。神に合わせる顔がないと、思っていたからです。
しかし神は、罪を悲しむ罪人をあわれまずにはおれないお方なのです。

神に解決を求める

第三に、彼はただ自分の罪を嘆き悲しむだけではなく、その罪の解決を神の前に持ち出して、あわれみを請うているということです。
これは、本当に大事なことなのです。自分を責めて、神のもとから逃げ出すのではなく、自分の罪を神の前にドカッとおいて、赦しを求めたのです。「あわれんでください」と叫んだのです。
そして、この赦しを求めることができたのは、神には、自分のようにひどい罪人をも赦す手立てがおありなのだということを、信じていたからです。そして、この信仰に神は、応えて下さる方なのです。

ある小学校の宿題

ある小学校から帰ってきた1年生の娘に、お父さんがききました。
「今日の宿題は何かな。」
「お父さん、抱っこしてもらうことだって。」
そうかと言って、父親は娘を抱っこしました。次にお母さんが抱っこし、おじいさんが抱っこし、ひいおばあさんが抱っこし、二人のお姉ちゃんも彼女を抱っこしたのです。
次の日、学校から戻ってきたので、末っ子の娘に聞きました。すると、
「私が一番たくさんの人に抱っこしてもらったんだよ。」
「そうかい。こんなに楽しい宿題だったら、やってこなかった子なんて一人もいなかっただろう。」
「ううん。それが一人いたんだよ。そしたら、先生がその子を前に呼び出したんだよ。そして、叱るのかなと思っていたら、みんなの前で先生がその子を抱っこしたんだよ。あんまり何回も何回も抱っこしてもらうから、いいなって羨ましかったよ。」
家の中で誰も抱っこする人がいない家族というのは、崩壊している家族です。だからこそ先生は、その子を何度も抱きあげたのでしょう。

神は赦しと恵みを与えて下さる

恵みは恵みを必要とする人をめがけて、強力に働くのです。それと同じように、神の赦しと恵みは自分の罪の処分を自力では不可能だと認めた罪人に、協力に下るのです。
どうぞあなたも、この恵みに満ち満ちた救い主イエス・キリストを、ご自分の心の中に受け入れて下さい。心からおすすめしたいと思います。

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