新約聖書
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(マタイ1:21-23)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.821 2015年12月20日

「おかえりなさいともたらすクリスマス」

おはようございます、高原剛一郎です!

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アンパンマンの作者であるやなせたかしさんの詩に次のような作品があります。

私たちは生まれてから 死ぬまでに
何人の人にめぐり逢うのだろう
無数のような気もするが
実はほんのわずかな数
そしてさらにその中で
この人と逢えてよかったと思える人が
たとえ ひとりでもいれば
それは幸せということになる
あなたに逢えてよかった
あなたと同じときに 同じ地球の空気の中にいてよかった
ぼくはあなたにそう言いたい

まあ読むだけでほっこりしてきますね。そして私たちが生きている間、私たちは様々な良いものと出会いますが、最大のプレゼントは人の形でやって来るんだと語っているようにも思うのです。
この世界を造られた創造主なる神様は私たちに太陽を備え、大地を備え、空気や水や植物を備えてくださいましたが、神は人間に対する最大のプレゼントを人の形でお与えになりました。それは神そのものである方が人としてこの世に誕生するということです。この人となられた神こそはイエス・キリストという方なんです。
そしてクリスマスはこのキリストの誕生を思い起こす祝日という意味があるんですね。聖書の中にヨセフという男性に告げられた神の言葉が書かれています。

マタイの福音書1章21節~23節

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

この箇所からキリストがこの世に来られた三つの理由をご紹介したいと思います。

人は温かい存在を求める

第一に、インマヌエル、人とともに神はいてくださるということを目に見える形で表すために来てくださったのです。
ある方が「の」の字の哲学ということを語っておられました。例えば、会社から夫が帰宅し「あー疲れた」と言った時、その一言を無視したり、「家事だって目が回るくらい忙しいのよ!」とやり返したのでは二人の間はとげとげしいものになりますね。その時「まあ、そう、疲れたの」と相手の言葉に「の」を添えることで相手の気持ちをそのまま受け入れていることを伝える、そうするとそこには平和がやって来るというんです。
「クリスマスはカナダに行ってきた」と友達が言ったら、「俺だって二回 行ったよ!」と張り合わない事です。「カナダに行ってきたの」と共感を示すと人は嬉しくなるんですね。なぜなら人はただ寄り添って、そばにいてくれる温かい存在を誰もが求めているからです。

神様がともにいて下さる

インマヌエルとは神が私たちとともにおられるという意味です。時には人はそばにいても本当には共感できないものですね。と言うのは人間の感受性は一人一人違うからです。ですから私たちは本当に悲しい時にむしろ一人にしてほしいと思う時があります。
それは神の前に一人出ること以外に真の慰めがない、ということを魂が本能的に知っているからではないかなと私などは思うんです。神様はどんな人生の暗闇の中でもあなたを見捨てず、見放さず、共にいてくださる方です。それを形で示すためにキリストは人となってこの世に来てくださったのです。

神は私たちがどうであれ愛してくださる

第二に、キリストは神が聖書においてした約束を守るために来てくださったのです。
「主が預言者を通して言われたことを成就するため」とは旧約聖書にある神の約束を果たすためにキリストはお生まれになったという意味なんです。この約束に対する律義さ、忠実さは、神の御性質に由来するものです。
神は私たちが不真実であっても、無関心であっても、冷淡であっても、私たちの側の状態に関わらず私たちを愛してくださるお方なんです。

愛し続けるということの大切さ

私はまだ若かった頃、愛にとって一番大切なものは素晴らしい相手と出会うことだと思っていました。もちろんそれもとっても大事な事だと思うんですね。しかし、出会った時は素晴らしい対象であった人が、その素晴らしさを失った後もその人を愛し続けることが出来るかどうかの方がより肝心なことかもしれません。健康だった人が深刻な病に倒れても、また前途洋洋たる人の将来が一転どん底になっても、それでも変わらずにその人を愛し続けることが出来るでしょうか。
その時に示す態度は気持ちや、甘い感傷ではなく意志ですね。それにもかかわらず愛するという意志です。そんな意志を持ち続けるというのは本当に難しい事ですね。しかし、神様は愛の対象者である人間が、いかに堕落し、不誠実であったとしても、神の誠実さの故にした約束を必ず守る方、人の状態に左右されない愛であなたを愛する方なのです。

罪人のままで愛してくださる

第三に、キリストは私たちを罪から救うために来てくださったんです。
友とはあなたの本質を知った後でも、あなたに対する好意を捨てない者のことだとものの本に書いてありましたが、キリストは人の本質が罪であると分かったうえでそれでもあなたを愛する方です。更生して、反省して、立派になった元罪人を愛すると言うのではありません。罪人のままの私をキリストは愛し、罪の結果から救うためにこの世に来てくださったと言うんです。
ですからキリストに愛されていない人は一人もいないのです。キリストは私たちの罪を背負って十字架に架かり、身代わりの刑罰をたった一人で引き受け、あなたの罪を償ってくださったんです。罪を償ってもらったものにとって、もはや死は恐れるに足りません。死後に待っているのは永遠の地獄ではなく永遠の天国であるからです。

「おかえり」と歓迎される

ある一流ホテルでVIP専属のコンセルジュをなさっていた大網理紗さんという方には忘れられない思い出がいくつかあるそうです。
あるVIPがホテルから出掛けて行かれ、また戻って来られた際に、「お帰りなさいませ」と声をかけたそうです。するとVIPが一瞬時間が止まったかのように動きを止められて、ジーと彼女を見つめているんですね。「いかがなさいましたか」「いえねえ、お帰りなさいって言ってもらうのは久しぶりだよ。前は当たり前のように言われていたけど、去年その妻が亡くなってしまったからね。お帰りなさいって特別な言葉なんだよ。」
仕事が終わって帰り着いた家が真っ暗で、鍵がかかっていて、冷え冷えとしていて、そして散らかったままであるなら心がしなえることでしょう。しかし、明るく、清潔で、そして何よりも心を込めたお帰りなさいが待ってると思ったら家が近づくにつれてスキップしたくなるんじゃないでしょうか。
私たちの魂の家である天国の主から「おかえり」と言って歓迎される、そんな究極のハッピーエンドをもたらすためにキリストはこの世に来られたのです。
どうぞあなたもキリストをご自分の救い主として心の中に受け入れてください。そして本当の意味でクリスマスをご自身の人生の中で体験なさってください。心からお勧めしたいと思います。

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