新約聖書
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。」
(ヨハネ11:25)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.787 2015年4月26日

「死んで終わりではありません」

おはようございます、尼川匡志です!

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 あるとき、母からこんな話を聞きました。「今まで生きてきた中でねえ、一番辛かったのは、待ちに待った赤ちゃんを、二度、流産してしまったこと」。そういった母の顔は、いつもの陽気な大阪のおばちゃんの顔ではありませんでした。一番辛かったのは、母の心の中にあるんだなあ、ということを、幼心に知った瞬間です。後にも先にも、聞いたのはこの時だけだったと記憶しています。
 この世界にある苦しみや悲しみの中で、最も大きなダメージを与えるものは、やはり死ではないかと思います。愛するものの死、これは強烈な痛みになります。
 小学生のときのことです、近所のお祭りで、ヒヨコ釣りをしていたんです。糸の先に餌をつけ、ヒヨコを釣り上げるんです。私はかわいらしいヒヨコを一匹、手に入れました。母は大反対したんですが、持って帰ってきたものは捨てるわけには行きません。生まれて初めて飼った生き物でした。毎日、学校から帰ってヒヨコを散歩させるんです。私の後ろをついてチョコチョコ走るかわいさは、たまりませんでした。しかし、一週間くらい経ったある日、学校から戻ると、ヒヨコがぐったりしているんですね。そして、あっという間に死んでしまいました。

死がもたらす悲しみ

 小さな生き物でも、大切なものの死は打撃を与えます。愛する人たちの死は、これに比べることができません。家族の死、親族の死、友人の死、お世話になったかたがたの死。そのなかで多くの人たちの、死に向かうときの戸惑いと恐怖の顔を見ました。残された人たちの、どうしようもない打ちのめされた姿も、見ました。悲しみで気が変になりそうになった、そんな姿も見ました。これらの痛みは、決して一時的なものだけではないと思います。
 私は自分の父を19歳で亡くしましたが、そのあと一年ほど父の夢を見続けました。 街の雑踏で、元気な父を見つけるのです。大声で叫んで、必死で追いかけるんですが、見失うんです。それを、何度も何度も繰り返しました。悲しみから立ち直って、元気になったように見えていても、心の中に開いた穴は、完全に埋まることはできないんです。それが、死の与える痛みです。  さて、ユネスコの調べでは、地球人口70億人のうち、一日で亡くなられる人の数は、だいたい15から18万人だそうです。そしてその人たちを取り巻く数倍、数十倍の人たちの悲しみが、毎日毎日、この世界にあふれているんです。

人間は死んで終わりではない

 私は今まで、多くの方たちの死に出会ってきました。多くの、悲しむ家族の姿も見てきました。その中で、クリスチャンの方の死と、そうでない方の死とでは、少し違いがあると感じていました。
 あるとき、クリスチャンではない、知人の看護師さんからこんな質問を受けました。「病院で、クリスチャンの方が亡くなられるときと、そうでない方が亡くなられるときでは、何かが違うように思うんです。家族さんも少し違うような気がするんですが、何か違いがあるんでしょうか、教えて下さい」。この方は、キリスト教系の病院にお勤めでした。それで、私はお話ししたんです。「クリスチャンは、人間が、死んだらおしまいで何にも無くなってしまう、とは考えていません。天国があると心から信じているんです。ですから、死は天国への入り口なんです。確かに、この世界で会えなくなることは寂しいことです。でも、本人も、残される家族も、天国で必ず再会できると信じているのです。ですからある方は、お先にね、と言って亡くなられます。また、See you again!(また会いましょう)と言って亡くなられる方もあるんです」。そうお話しすると、真剣に耳を傾けて下さいました。

聖書が語る死後の世界

 イエス・キリストはあるとき、こう言われました。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。」

 死んでも生きる。なんてバカバカしいことを信じているんだろう。そんなのは絵空事だ、ごまかしだと思われると思います。日本人の多くの方は、人間は死んだら終わり、と。でも、本当に終わりなんでしょうか。聖書は、そうではない、天国があるといいます。どちらが正しいのでしょうか。

ゴールテープの向こうにあるもの

 最近はマラソンブームですよね、東京や大阪、またいろんなところで、市民マラソンが大盛況です。人生は、よくこのマラソンにたとえられます。山あり、谷ありの42.195キロ。やっと走りきってゴールのテープを切った瞬間、もし、何もなくなり消滅するならば、その人は一体、何のために走るんでしょうか。テープの向こうに栄冠があり、また、そこで愛する人が出迎え、抱きしめてくれるからこそ、この長く苦しい道のりを走りきる意味と喜びがあるのではないでしょうか。もちろん、走りきるプロセスが大切なこともわかります。でも、プロセスはあくまでプロセス。それが目的になるわけではありません。もし、ゴールのテープを切る瞬間に自分が消滅するならば、ゴールは目指すべきものではなく、ただの恐怖の瞬間でしかないはずです。消滅する瞬間が近づけば近づくほど憂鬱になるのは、当たり前ではありませんか。そして、自分を愛し、支えてくれた人たちが悲しみに打ちひしがれる瞬間でもあるんです。人生とは、そんなもんでしょうか。わたしは、両手を挙げて、喜んでそのゴールを走り抜けたい。お先に失礼!って、笑顔で言い切って走り抜けたい。心から、そう思っています。

天国は本当にある

 イエスは言われました。「人間は死んでも生きる」。では、どうすれば死んでも生きることができるのでしょうか。イエスは、言われています。「わたしを信じるものは、死んでも生きる」。イエスを信じるものは、死んで終わりではなく、天国があるんです。どうしてそんなことがあるのか。あなたが、ビルで火災に巻き込まれたとします。このままでは時間の問題。ある人が叫びました。「ここをまっすぐ行って非常口から出よ!」。そして、その言葉を信じ、従った人は助かり、生きます。別の人が叫びます。「どうしたって無駄だ。どうせここで全員死ぬんだ!」。それを信じた人は、死ぬんです。世界を変え、何十億の人たちに死の向こうにある希望を示し続けたイエスの言葉に、耳をかたむけて下さい。信じ、従って下さい。死んでも生きることができるために。心からお勧めします。

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