新約聖書
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(1ヨハネ4:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.779 2015年3月1日

「ほめたたえられるべき神」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 昔、天下統一を果した徳川家康が、跡継ぎの長男秀忠に語ったと伝えられている話があります。「大将というのは敬われているようで家臣は絶えず落ち度を探しているものじゃ。恐れられているようで侮られ、親しまれているようで疎んじられ、好かれているようで憎まれている。したがって家臣というものは金でつないではならず、機嫌を取ってはならず、遠ざけても近付けてもならず、怒らせてはならず、油断させてはならないものだ。」「では父上、一体どうすればよろしいのでしょう。」「惚れされる事よ。」では惚れさせるためにはどうしたらいいんでしょう。徳川家康によると一にも二にも誠意を尽くして面倒を見る事だというのです。人間は誰でも真心を持って全力で支えてくれる人に恩と感謝を持たずにおれないからです。そう考えました時に、私は神ほど人間に惚れられてしかるべき方はないのではないかと思うのです。聖書の神こそはあなたが生涯を尽くして愛するに値する偉大なる造り主なる神様です。なぜなら聖書にこう書いてあるからです。

   「私たちが神を愛したのではなく神が私たちを愛し私たちの罪のために宥めの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

神は何をしてくださったのか

 今読んだ箇所に神があなたのためにしてくださった事が3つ書かれてあります。
 第一に、神はあなたを造ってくださったという事実です。聖書の神は人間の宗教心が作った神々ではなく、人間をお造りになった神です。あなたの作者なる神、あなたの人生は神の創造によってスタートしたのです。あなたという存在がこの世に生まれてきたらどんなに良いだろうかと期待と夢を持ってあなたを人格ある者として造られた神様です。そしてあなたが生きていくのになくてはならない物を日々供給することであなたを生かしている方なのです。

神に感謝をささげること

 私の友人に北海道出身の方がいます。少年時代、彼が通っていた小学校は二つの地域から子供が集まっていたそうです。それは山村地域と漁村地域です。何をするのもこの地域グループで一塊になることが多かったそうです。そして喧嘩になるのも大抵この地域別対抗だったそうです。互いに興奮した時、漁村グループが言うのはこちら側の親の悪口でした。お前らの父ちゃん、母ちゃんは山に生えてるキノコや木の実を取ってきてそれで生活してるだけじゃないか。自分で植えたり育てた訳じゃないもので生きているなんてちゃんとした仕事って言えるんか。すると山村グループが言い返すそうです。お前らの父ちゃんは海で勝手に泳いでいる魚を獲り、お前らの母ちゃんは勝手に生えている昆布を引き抜いて食べているんじゃないか。自分で作ったわけでない物を獲って生きているくせに偉そうにするな。
 まあ、どっちもどっちですが、しかし一面の真理をはらんだ罵り言葉だと思うのです。つまり人は自分で作ったもので生きているのではなく、神の造られた物によって生かされているということです。あなたが今日、今日まで生きてこれたのは何故でしょう。神が生かしてくださったからです。だからこそ神は私たちが当然感謝をささげるべきお方だと言う事ができるのです。

私たちに注がれた神の愛

 第二に、神は私たちが反逆している時でもなお愛してくださった方なのです。私たちが神を愛したのではない。むしろ神を無視し憎み逆らいどおしであるにも関わらす、神が私たちを愛してくださったと聖書は語っているのです。
 先日ある雑誌に虐待傾向のあるお母さんの投書が掲載されていました。何をやらせても遅い長女に対して彼女はついカーッといきり立ってしまうのです。その長女が二歳の頃、トイレの躾が上手くいかないので頭にカーッと血が上ってしまう事があったそうです。声をあげ「なんでおもらしする前に言ってくれないの。他の事ならベラベラ喋れるじゃない。肝心なことをどうしてちゃんと言えないの。あなたの口は何のためについているの。」すると娘は泣きながら言いました。「ママ。」「ええ、ママが何なの。ママだけじゃ、何言っているか分からないでしょ。はっきり言いなさい。」「ママって言うためについているの。」その瞬間、頭の中が真っ白になったというのです。私の口はママって呼ぶためについてるの。どんなにひどい扱いをしてもそれでも懲りずに慕って、近寄って、抱き着いてきて、ママって呼んでくれる娘の愛に触れた時、泣かずにおれなくなったというのです。
 人間社会でこんな愛は滅多にお目にかかれませんね。というのは、私たちの愛というのはお互い様の愛であって自分に良くしてくれたら愛するけど、自分に不愉快な人を愛そうとは端から思わないからです。しかし神様の愛は変わらない、揺るがない、ぶれない永遠の愛です。だからこそ神様は愛されてしかるべきお方だと言えるのです。

私たちの罪は贖われた

 第三に、神は反逆者である私たち人間の罪をイエスキリストに負わせて裁くことで私たちを完全に許して下さる方なのです。この一方的な罪の許しのゆえに神は愛されて当然の方なのだと私にはそう思えてならないのです。
 1974年アメリカのマサチューセッツ州で自転車に乗った16歳の少女が車にはねられて亡くなるという事故がありました。少女を死なせてしまった運転手は事後の後、少女の父親が一言でいいから謝って欲しいと懇願するのですが頑として謝罪の言葉を言いませんでした。なぜなら一言でも謝ってしまったら、自分の過失を認めた事になり裁判ではその謝罪行為が自分を追い詰めるものになってしまうからです。ま、なんでもかんでも訴訟、訴訟の国アメリカならではの事情があったわけですね。
 しかし、納得いかないのは少女のお父さんです。実はこのお父さんは州の上院議員でもあったのですね。そしてこの国では詫びる言葉すらいえないのか。と憤慨し、そして彼は議会にI'm sorry法案という法案を提出し、ついに1986年に条例化されるんですね。そして、過ちを犯した者が謝ってもその謝罪の言葉そのものは法廷で証拠としては採用しないという事が認められたのです。この州法は全米で歓迎されました。そして今や40近くの州で採用されているのです。
 どうしてご免って謝罪の言葉を言えるようになったのでしょう。許されるからです。神は私たちの罪をキリストにおいて完全に許して下さいました。それはなんのためでしょう。私たちが悔い改めて神に立ち返るためなのです。あなたを許すために全ての備えを万全に整えて下さっている方。その方は何のためにそうなさったのでしょうか。私たちが心砕かれて神の前に立ち返るためなのです。
 どうぞこの救いを達成してくださった救い主イエスキリストをご自分の救い主として信じ受け入れあなたの造り主の下に帰ってください。心からお勧めしたいと思います。

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