新約聖書
「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」
(ヨハネ9:3)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.778 2015年2月22日

「心くじけて」

おはようございます、尼川匡志です!

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 今から40年ほど前のことですが、私は高校を卒業し、浪人をしていました。それも二年間。二月になりいよいよ受験という時に、いろんなことが重なって、私は大学を受験せずに、ある専門学校に行くことにしました。選んだのは、経理専門学校。これは痛恨の選択ミスでした。私は、性格がきわめておおざっぱというか、適当なんですね。簿記の勉強は楽しかったんですが、学校で将来就く仕事のことを知れば知るほど、自分には向いていないということがわかるんです。私は帳簿で百円不足していたら、百円ポケットから出して、足しとけばいいや、的な発想をする人間なんです。これでは経理などできるはずがありません。学校を一年で辞めてしまいました。入学金を出してもらった母親に合わせる顔がありませんでした。その後就職するんですが、何をやっても長続きしないんです。飛び込みののセールスマン、印刷業、編集の仕事、中央卸売市場で魚を売ったこともありました。
 そしてたどり着いたのが、カメラマンという仕事です。しかし、それも三カ月ほどしたころ、自分には向いていないな、ということがわかりだしたんです。それは私が不器用だからです。毎日、失敗の連続なんです。カメラマンという仕事は、徒弟制度の残る仕事なんです。師匠によく怒られたんですね。とっても優しい方でしたが、それでも怒らずにはおれないほど、私に失敗が多かったんです。師匠から怒られると、仕事だけじゃなく、自分の人間性そのものに駄目だしがされたように思い、本当に落ち込みました。何度も何度も辞めようと思いましたが、興味だけはいっこうになくならないので、くびにされるまではしがみついておこう、と決めました。でも、辛い日々の連続であったことは変わりありません。

心が弱くなったときにどうすればよいか

 私は自分という人間が本当に駄目な人間だ、と早い段階で気づいていたように思います。何をやっても続かないんです。意志が弱いんです。気が小さい。人の顔色を見る。不器用である。高校の時までは、それなりに自分はできる人間だと思って、自信があっただけに、18歳以降、自分のうちに膨れ上がったコンプレックスは本当にひどいもんでした。自分は駄目なんだ、そんなことを毎日突き付けられていたような気がします。そんな時、人間はどうすればいいんでしょうか。視力が弱くなればメガネをかけます。聴力が弱まれば補聴器をつける。脚力が落ちれば杖をつけばなんとかなる。では、心が弱くなった時、どうすればいいんでしょうか。友がいるじゃないか、家族がいるじゃないか、それらの人に支えてもらえばいい。たしかにそうです。でも、なかなか自分の駄目さを、話すことはできないんです。言えたとしても、それを本当にわかってもらえるんだろうかと思います。私たちはそのような時、自分の弱い心を包み込み、支えてくれる存在が本当に必要なんです。

聖書との出会い

 私はカメラマンになって五年目の28歳の時、聖書に出会いました。それは本当に不思議な出会いでした。実は私はその直前まで、クリスチャンのことが大嫌いだったんですね。それはクリスチャンが知性を無理やり封印して、あるかどうかもわからない神という存在を、無理やり信じ込もうとしている、弱く、思い込みの強い人間だと私が思っていたからです。でもそれは誤解でした。クリスチャンは知性を働かせない人ではなく、よく考える人たちでした。自分の弱さを素直に認め、その弱い部分を隠したりせず、ごまかしたりするのではなく、弱さを神という絶対的な存在に支えてもらっている人たちであるということがわかったんです。あれから28年経ちました。私の人生はこの出会いを境に大きく変わり始めました。相変わらず欠点はありますが、すばらしい人生を今、生きています。

欠点には神の栄光が現れる

 さて聖書に、生まれつき盲目の一人の人物のことが書かれています。二千年前、目が見えないというハンディは今とは比べものにならないほど大変でした。苦労するために生まれたようなものです。だから彼のまわりの人たちは、なぜこんな不幸を彼は背負って生きなければならないんだろうか。それにはきっと原因があるはずだ。この人の両親が罪を犯したのか、それとも本人がとんでもない罪を犯したにちがいない。そう考えていたんですね。ある時、イエスと弟子たちがこの盲人のそばを通りかかりました。弟子たちも同じように考え、この人がこうなったのは、誰のせいですか、両親でしょうか、本人でしょうか、とイエスに訊きました。イエスは彼らの質問に答えず、この人自身が望んだのではないこのハンディを持っている意味について話し出されたんです。こう言われました。「神のわざがこの人に現れるためです。」これはこの人がハンディと感じているところに、神さまのすばらしさが豊かに現されるんだ、という意味です。
 誰もそんなことが起こるなんて信じられませんでした。ただ一人この人を除いては。私たちは誰もが、自分が望んでいない多くの欠点を持っています。こんな性格でなかったら、こんな境遇でなかったら、こんな両親でなかったら、こんな能力でなかったら、こんな姿かたちでなかったら、私の人生はもっとすばらしいものになったはずだ。そう思います。その原因とは何でしょうか。もしそれを考えても、答えは出ません。わかったところで、過去にもどって変えることはできないんですね。大切なのは、どうすることもできない欠点のある私たちの未来を、本当に変えることができるのかどうか、変わるのかどうかが、重要なんです。私のその欠けた部分にイエスが言われた、神の栄光、神のすばらしさが現れるかどうかです。

行ってシロアムの池で洗いなさい。

 さてイエスは、つばで泥を作ってこの人の目に塗って言われました。「シロアムの池に行って洗いなさい。」なんの意味があるのわかりません。しかし、この男性はイエスのことばを信じたんです。そして今まで行ったことのないその池に、よろめき、つまずきながら行ったと思います。そして池で目を洗った時、彼の目は見えるようになったんですね。イエスのことばを信じないで、相変わらず、自分の欠けた部分を嘆いていたとしたら、何にも変わらなかったでしょう。しかし、イエスのことばに従って、シロアムの池に行った時、彼の未来は変わったんです。
神は生きておられます。神はあなたの過去がどんなのもであったとしても、欠点がどんなにあふれていたとしても、そこに手を触れ、あなたの未来を変えることができるお方なんです。
「行ってシロアムの池で洗いなさい。」不安もあるでしょうが、あなたも一歩前進してみられてはいかがでしょうか。あなたの未来は変わります。心からお勧めしたいと思います。

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