「永遠のみ腕に支えられて」
ところでこのエボラウイルスというのは新種のウイルスではないのです。昔からオオコウモリに寄生していたんです。したがって蝙蝠を食べたり、これに感染して死んだ猿や蝙蝠と接触することで人間にうつり、また、うつった人間の血液や体液に触れることによって人から人へと感染していくんです。アフリカでは葬儀のために死体に触れる習慣があり、これが感染を抑え込めなくさせている理由の一つになっているんですね。
聖書が語る驚くべき事実
ところで現代医学でもお手上げのこのエボラ出血熱に対して聖書は今から3500年前にその予防法を語っているっていうんです。旧約聖書のレビ記11章に鳥の内でこれらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、こうもりなどであると書いてあるんです。またこうもりなどの食用を禁じられている動物の死体には触れてはならない。触れる者は夕方まで穢れるとあって、接触を避ける事を命じています。
さらに申命記14章というところには、あなたがは自然に死んだものを一切食べてはならないとあります。生物の病気が人に感染することを見通しているような勧めです。さらにどのような人の死体にも触れる者は七日間穢れるとあるんです。もしこの聖書の言葉通り、蝙蝠を食べず、死んだ動物を触らず、エボラ出血熱で死んだ人の体に触れなければ、今、私たちが見ているような感染拡大はありませんでした。
聖書は創造主からのメッセージ
実際、このルールを厳格に守っているアフリカのユダヤ人たちは全くこれに感染していないといわれているのです。今、私が紹介した旧約聖書の言葉はウイルスはおろか伝染病の概念すらなかった時代に書かれたものです。しかし、現代医学の知識に照らして見た時、実に合理的、実践的な正しい対処方法なんです。どうして、ウイルスの存在を知らない時代の人がこんなことを書く事が出来たんでしょう。それは聖書が人間の知恵による宗教の本などではなく、人間をお造りになった創造主の言葉であるからです。
さて、この聖書は伝染病の予防をテーマにかかれたものではありません。最大のテーマは死の解決は完成したという喜ばしいお知らせなのです。キリストが十字架にかけられた時、同じように隣で十字架処刑されている犯罪人がイエス・キリストに話しかける場面があります。このように書いてあります。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
永遠のいのちを与えるキリストの福音
ここには死を目の前にしている人にも永遠の救いを与えるキリストの救いが紹介されています。ここから3つのポイントで死に打ち勝ったキリストの福音をご紹介いたしましょう。
第一に、息を引き取る直前まで人には救われる望みがあるという事です。両手両足を釘づけられたまま垂直に木に吊るされている死刑囚は出血多量と呼吸困難に陥りゆっくりと、しかし確実に死を迎えます。もはや逃れる事は出来ません。死の恐怖で彼は気も狂わんばかりであったことでしょう。しかし、目の前のキリストがまるで自分1人のためであるかのように祈る言葉を彼は聞くのです。父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。それは確信に満ちた祈りでした。私に代わって、私の罪の許しを勝ち取るキリストを彼は単純に信じたんですね。そしてキリストは単純に信じる人を100%救う事がおできになるのです。
キリストに対する信仰がもたらすもの
CSルイスという人は自らも余命いくばくも無い状態で、もうすぐ息を人る人にこんな手紙を送っています。痛みは恐ろしいものですが、そのうえ不安まで抱く必要はないと思いますよ。私たちは何かを恐れるから、もがきます。でも、多くの場合、むしろ逆です。私たちがもがくから恐ろしいだという事を心に留めて下さい。あなたは今も今も、もがいたり抵抗したりしているのですか。私たちの主が安かれ、子よ、安かれ。しがみつくのをやめなさい。あなたの下には永遠の腕がある。手を放しなさい。私があなたを抱き留めてあげる。あなたはそれくらいしか私を信じていないのか。そうおっしゃっているとお考えになった事はないでしょうか。そんな手紙です。キリストを信じた人は、たとえ恐れていても大丈夫です。キリストへの信仰があなたを救うのではなく、キリストご自身があなたを救ってくれるからです。
死は絶望ではなく次の段階へのステップ
第二に、クリスチャンにとって死は絶望ではなく開放なのです。それは縛り付けられていたものが自由にされることです。閉じ込められていたものが開かれて外へはばたく事なのです。十字架によって苦痛にさいなむ体を脱ぎ捨てて、まるで蛹が殻を脱いで蝶になるように自由に楽に美しくなること、それがクリスチャンにとっての死なのです。
天国に入るころができる希望
第三に、クリスチャンにとって死とは終わりでも消滅でも地獄でもなくパラダイスに入ることです。パラダイスとは天国です。それは神の国なのです。この天国に入る資格は自分は天国に入る資格はないと認めた人だけなのです。本来天国どころか地獄がふさわしい者だと認める人です。そしてそんな自分を許すためにキリストが身代りに死に、三日目に復活してくださった事を信じる人だけが天国に入るのです。それは依怙贔屓ではありません。キリストの犠牲だけが人間を完全に罪の消毒をなさしめるものであるからです。アフリカのエボラ出血熱の被害地域にはいった人々は完全消毒しなければ別の国に入国することはできません。罪なき聖い天国はなおさらのことです。罪が完全に消し去られていなければならないのです。そしてキリストの命はどんなに罪深く酷い歩みの人をも完全に浄める力があるのです。
どうぞあなたもご自分の救い主としてイエスキリストを受け入れ今すぐただちに永遠の命を頂いてください。心からお勧めしたいと思います。