「神からの『新しいいのち』」
今日は、神さまがあなたに与えたいと願っておられる「新しいいのち」について考えていきましょう。これは色褪せることも、途中で失うこともありません。
「新しいいのち」は創造主からもたらされる
まず第一に、「新しいいのち」は創造主からもたらされる、ということです。
1861年にフランスの科学者ルイ・パスツールが「自然発生説の検討」という本を書き、それまで多くの人が信じていた「生命の自然発生説」が間違いであることを証明しました。この「生命の自然発生説」というのは、「いのちが親なしで、いのちのないものから一挙に生まれる」ということです。これは別名「偶然発生説」とも言います。偶然にいのちはできないということをパスツールは証明したんですね。パスツールは、すべてのものを造られた創造主なる神を信じていたクリスチャンでした。牛乳などを殺菌する低温殺菌法を英語でパスチャライゼーションと言いますが、彼の名前にちなんでいます。彼は、いのちはいのちなる方からのみもたらされるということを信じていたのです。 私たちが持っているこのいのちはすばらしいものですが、人間自体にはいろいろな問題があることに気づいておられるでしょう。神が造られたいのちですが、神はわざと不完全に造ったのでしょうか。失敗したのでしょうか。実は、これは制作者の問題ではありません。人間が神のもとから離れていったのです。私たちは創造主を見失い、自分たちの好きなように生き始めたときから、自分たちのいのちに傷をつけ、よくない状態を引き起こし、いのちの病気を抱え込んでしまったと聖書は説明しています。
だから神は「新しいいのち」を与えたいと願っておられるのです。いのちはいのちあるところからもたらされます。新しいいのちは創造主からのみ、与えられるのです。
「新しいいのち」は救い主から与えられる
第二のポイントは、この「新しいいのち」は救い主イエスを通して与えられる、ということです。
問題を抱えたこのいのちの問題を解決するために、神は救い主を送ってくださいました。それがイエス・キリストです。
しかし、宅配便の配達人のように「新しいいのち」を携えて、この地上に来て、人間に「はい、どうぞ」というわけではありませんでした。「古いいのち」に関して最も大きな問題である「罪の問題」を解決する必要があったのです。
イエスは、罪のない完全な生涯を歩まれて、人間の身代わりになる資格があることを神にも人にも示されました。その後、人間が受けなければならない罪の刑罰を、自らが引き受けて十字架に向かっていってくださったのです。人類の罪のためのいけにえとなって神の前に捧げられ、壮絶な最期を遂げて墓に葬られました。「罪の赦し」は十字架に大きく関わっていますが、「新しいいのち」についてはイエスの死なれた後のことと深く関わっています。
神は、救い主としての働きを完璧に果たされたイエスを、死後三日目に「新しいいのち」を与えて、蘇らせたのです。
復活なんて信じられない、という方もおられます。しかし、いのちをもたらすことのできる唯一の神がイエスに新しいいのちを与えたと考えると突拍子もないこととは言えないでしょう。この死を突き破って復活したイエスと出会った多くの弟子たちは、「新しいいのち」の存在を目の当たりにしたのです。そして、自分の命をかけて、世界に向けてこのグッドニュースを発信し始めたのです。
「新しいいのち」に励まされて進む
人間が「新しいいのち」を得る道が開かれました。自分の罪を認め、イエスを救い主として受け入れるならば、この新しいいのちをいただくことができるのです。次のように聖書に書いてある通りです。
「…もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
ローマ10:9,10
修行を行うとか、お金を積んだり、善い行いをたくさんするといった方法ではありません。イエスに連なることです。すなわち、へりくだってこのイエスを主として歩んでいくことで得ることができます。いのちなる方からいのちがもたらされるからです。
この「新しいいのち」が私たちに新しい生き方に導いてくださいます。りっぱな人になるために修行に入るのではなく、新しいいのちが私たちを励まし、力を与えてくださいます。時々「私は心が清くないから教会なんて行けません。」という人がおられます。でも実は元から心が清い人は教会に来る必要はないのです。自分は不完全、心が清くないという人こそ教会が必要なのです。神に赦しやあわれみを、さらに「新しいいのち」を頂いて、そのいのちに励まされて進んで行くのです。決して自分のがんばりで歩んでいるのではありません。
「新しいからだ」が用意される
最後のポイントは「新しいいのち」のために「新しいからだ」が用意される、ということです。
この世界の生き物でも、地上に住むものと、水中に住むものとでは、かなり作りが異なっています。でも中には幼虫のときには水の中に住み、成虫になると大空を自由に滑空するトンボのような虫もいます。全く知識のない状態で、ヤゴと呼ばれる幼虫から、トンボの成虫を予想するのは不可能だと思いませんか?
さて、神は「新しいいのち」にふさわしい「新しいからだ」を用意しておられます。この地上にいてそれを想像するのは難しいですが、復活したイエスはその実例を人類に示されました。それはトンボのようではなく、同じようにも、異なっているようにも見える不思議なものでした。新しいからだについて、天に上で「天上のからだ」と表現し、次のように語られています。
「…すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。
また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており…」(第一コリント15:39,40)
とあります。
この地上でも、それぞれの生き物にそれぞれのからだが備えられています。今、私たちが持っているからだは、神から離れたとき以来、死んでいくからだとなってしまいました。年を経るにつれて、衰えていき、特に病気にならなくても枯れていくように生涯を閉じます。しかし、神が用意される「新しいからだ」は「新しいいのち」を入れる器としてふさわしく整えられたものです。
是非、みなさんもこの「新しいいのち」を得るために、イエスの元へ進んでくださることを心からおすすめしたいと思います。