新約聖書
 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイ1:21-23)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.767 2014年12月7日

「心を生かすキリストの到来」

おはようございます、高原剛一郎です!

 先日私は滋賀県に参りました。そして、急がば回れの由来を教えて頂いたのです。「急いでいるとき程、安全な方法を取れ」という意味だとは知っていましたが、これが琵琶湖に由来するとは知りませんでした。昔、旅人が京都に行く際、舟で琵琶湖を横断するコースと琵琶湖の周囲をぐるりと回るコースがありました。横断する方が距離は近いんですが、比叡山から吹き降ろす風が大変に猛烈で、そして危険なルートでもあったのです。それで「急いでいる時ほど、陸路の遠回りを行け」というところから出てきた言葉なんだそうです。

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 普段使ってる言葉ですが、その元々の意味、本当の意味については知らないままになっているってことが案外あるんですね。そしてその代表格が、私はクリスマスだと思うのです。12月に入ると日本にも至るところにイルミネーションが飾られ、ショッピング街やレストランにはクリスマスの言葉が溢れかえります。しかし、クリスマスの本当の意味が置き去りにされているように思うのです。クリスマスとはキリストがこの世に来られたことを記念する祭りのことなのです。

キリストが到来された理由

 キリスト誕生の経緯について聖書はこのように語っています。

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」

私たちを罪から救い出すため

 今日は二つのポイントでキリストが到来された理由をお伝え致しましょう。第一にキリストは私たちを罪から救い出すために人としてこの世に来られた神であるということです。

受刑者更正プログラムがもたらすもの

 実は今世界中の先進国いわゆる豊かと言われる国々の共通の悩みに刑務所が満員状態であるということがあります。それでアメリカでは民間企業に刑務所の管理を任せる州も出てきているようです。過密状態の解消のためには、抜本的には再犯率を低くするということです。刑務所の中で受ける更正教育が実を結ぶように支援していくということですよね。そこでアメリカのある刑務所では受刑者に対して自分たちがしたことが被害者家族にどれほど恐るべき結果をもたらしていたのか、他の人の人生を破壊しているという現実を徹底的に知らせ、それに向き合い、反省を深めるようにしたんです。罪がもたらす結末さの恐ろしさを知れば、罪を犯さなくなるに違いないと考えたのです。ところが追跡調査の結果、この刑務所を出所した受刑者の再犯率はたの刑務所の再犯率よりも高かったというのです。一体どうしてこんな矛盾した結果になったんでしょう。この刑務所の受刑者がこのプログラムから受け取ったもの、それはあなたは幸せになってはいけない。あなたには幸せになる資格はないというメッセージであったからです。破滅的なセルフイメージは、破滅的な人生を選ばせて行きます。罪悪感や自分への嫌悪感、人生への暗い疑念は人をより良く立てる力にはならないのです。

心配の眼差しはこころを癒す

 先日、私は長野県に参りました。部屋が寒かったので、妻と一緒に買ったダウンジャケットを着込み、背中に石油ストーブを置いて暖めておりました。しばらくすると妙な臭いがするのです。そーっと背中に手をやるとなんとダウンジャケットが焦げ、焼けているではありませんか。ふと部屋を見ると、まるで雪の中にいるように部屋中ダウンだらけでした。私はそれを大阪にいる妻にメールでおもしろおかしく知らせました。すると大変心配しているメールが届いたのでびっくりしたんです。あなた自身は焦げてませんかというんですね。焦げてません。しかし自分のしでかした失敗なのですが、それをやり込められると、どうしても自己防衛的になりますね。でも失敗を見る目が心配の眼差しであるとき、心は癒されていくのです。  神は罪そのものについては憎む方です。罪を憎む聖い神です。しかし、罪人をあわれまずにはおれない恵みの神なのです。人が負っているすべての重荷、すべての罪、すべての涙の理由を何もかも背負って処分するためにこの世界に来られた方、この方こそはイエス・キリスト、あなたのための救い主なのです。

いつも共にいる神となられるため

 第二に、キリストはいつも共にいる神となられるために、この世に人となって来られたのです。人間ということを経験なさった神なのです。筋金入りのクリスチャンであったヨハン・セバスチャン・バッハの楽譜にはいくつか特徴がありました。はじめのページの頭にJJとアルファベットの頭文字が、そして最後のページにはSDGというアルファベットの文字を書き込んでいたのです。JJというのは、ラテン語でイエス・ユバー、訳すと「イエスが助けて下さる」という信仰の祈りです。SDGとはラテン語で、ソリ・デオ・グロリヤ「ただ神に栄光がありますように」という賛美の祈りです。彼は誰もが認める押しも押されもせぬ音楽の天才ですが、神によろこばれるような作品は、イエスの助けなしには作れないと考えていました。そこで彼の作曲活動は自分の力に頼って、自分の力で切り開いていく仕事ではなかったのです。キリストと自分の共同作業により活動だったのです。しばしば筆を止め、キリストに語りかけ、キリストと会話しながらキリストと共に楽しんで、喜んで、躍動しながら、交わりながら取り組んだ仕事なのです。そしてこのキリストの助けで作り上げた作品を発表するとき、そこには感謝が伴っていました。私の作品はイエスと私という私たちの作品です。主イエスが私を助けて下さったのです。どうぞ神よこの音楽のささげものを受け取って下さいという祈りがあったのです。

自分の力だけの人生と神と共に歩む人生

 やがてルネッサンス期以降、現代に至るまで多くの音楽家、ミュージシャンが世界中に登場します。自分の才能に任せて作品を造り続けた音楽家はやがてぶつかる行き詰まりの中で挫折したり、薬物に溺れたり、自分を死にまで追い込んでいくような人々が続出していくのです。好きでしている仕事なのに自分の力だけでやり続けていると、やがて疲れが出てくるのです。しかし、ここに自分の力だけで人生を切り開こうとした生き方と、神と共に歩む人生との違いが表れているように思います。

人生を完成させて下さるキリスト

 今、疲れている人は自分の力だけで生きているってことが原因ではないでしょうか。キリストはあなたと共にあなたの人生を完成させて下さる方です。どうぞあなたのためにいのちを投げ出す覚悟でこの世界に到来した救い主イエス・キリストをご自分の救い主として迎え入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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