新約聖書
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
(ルカ19:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.758 2014年10月5日

「救うために来たキリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 みなさん、こんにちは。本日はどうも、このようにお集まり下さいましてありがとうございます。
 さきほど、すばらしい賛美を伺いながら、私も歌ときけば、最近こんなことを経験したんです。二カ月ほど前に、四国の高松というところに、聖書の講演に招かれて行ったんですね。一泊、友人の家に泊めてもらったんです。実はそこの家に2歳くらいの女の子がいましてね、その子がもう私にとっても懐いてくれましてね、そしてね、朝の六時ぐらいにですね、私の寝室に勝手に入って来たんですね。そして耳元でまるで小鳥のようにかわいらしい声でね、歌ってくれたんです。その曲名がね「君が代」。もうね、びっくりしてもう目が完全に覚めてしまいましてね、そしてその後でね、「ブラジル国歌」その後に「スリランカ国歌」その次には「ベトナム国歌」で、聞いたことないよというようなね。それをね、延々と歌うだけ歌ってね、「はぁ。」って言って帰っていくんですけど。忘れられない歌でしたよね。いろんな国の国歌の歌詞っていうのは、いろんな国のことばでしょう?それを2歳児がどうしてそんなにすらすらと歌うことができたんだろうか。ずばりね、繰り返し聴いたってことです。これは語学習得の王道なんですよね。と同時に実は聖書メッセージ理解のための王道でもあるのです。

自分がいないときに自分を思い出してもらえる喜び

  東京にですね、日本で一番ご高齢の現役のお医者様がいますよね。日野原重明さん。10月4日で104歳。今でもね、週に一度は徹夜。麻雀じゃないんですよ。原稿書きで。そしてですね、聖路加病院の最上階にある院長室までは階段で行くそうです。9階ですか。エレベーター使わない、階段。2段とばしで、トットットッと、いいですか、急に真似しないでください。急にやったら、えらいめに合いますからね。徐々になさってください。そしてですね、あっちからも来てください、こっちからも講演しに来てください。予約、予定がぎっしり詰まっている。なんとですね、120歳までスケジュール帳いっぱい。120歳?まだやるか?ま、あの人やったらやるかな、と。すごいなというふうに思うんですけれども、ま、その方がですね、こんなふううにおっしゃてたんですね。

医学の進歩の前に立ちはだかるもの

 今の医学の進歩で、かつて不治の病と言われていた病気が治る病気になった。そして助からないと言われていた人たちが随分助かるようになった。これは、医学の進歩で、なんとありがたい、すばらしいことではないでしょうか。でも、同時に、医学っていうのがどんなに進歩したとしてもね、人間は一番最後にかかる病気を治すことはできないんです。医者は、治してまたかかり、治してまた病気にかかり、治して病気にかかり、そして一番最後の病気だけはね、どんな医学の力をもってしても治すことができない。まぁね、彼がね、これ野球に例えてこんなことを言ってましたですよね。9回表まではピンチのたびにうまく切り抜ける試合、この試合はね、こっちの方が優勢じゃないかというふうに見えるけれども、9回の裏になったら、必ず負けることが定まっている、これが人生じゃないか。

人間が死を抱え込んだ理由

   医学が進歩したら癌の撲滅はできるかもわからない。エボラ出血熱のこのワクチンができるかもわからない、今、難病の病気を克服することができるかもしれない。しかし、死そのものを医学の力で、消滅させることはできない。みなさん、人間ってなぜ死ぬんでしょう?聖書はこう言っているんです。

 「罪から来る報酬は死です。」

    木の枝からフルーツをもぎ取ったら、そのままほっといたらやがて腐りますよね。葉っぱにしても、実にしてもいのちの供給源につながっていたら、それは茂ったり、実ったりしますけれども、いのちの供給源から切り離されたら、やがては枯れる、やがては腐る、やがては滅んでいってしまうのです。人間のいのちの供給源、創造主である真の神さまから離れたその人間は、どんどんどんどん、ま、100歳まで生きるかもわかんない、120歳まで生きるかもわかりませんが、最後には死に至ってしまう、と聖書は語るんですね。
 ですから、彼はその最後でこういうふうに言ってました。「だからこそ、キュアだけではなく、ケアが必要なのです。」ま、キュアってのは治療です。ケアってのは看病とかお世話ってことですよね。最後はもう医学の力で治すことはできない、だから治療だけではなく、ケアが必要なんだ。死にこれから一人で臨んでいかなければならない、その人に心の中に勇気を与えるような、そのようなケアが必要だっていうんですけど、みなさん、人間にできますかね。一体、死という現実の前で、誰がこの死の恐怖に打ち勝つことができるでしょう。それを打ち勝たしめてくださるお方が、一人だけいます。それは私たちのために、いのちを捧げて十字架にかかって死に、死後3日目に復活なさったイエス・キリストという方なんです。この方はね、私たちを救うために来た、私たちの罪を赦すためにこの世界に来てくださったのだ、っていうんですね。

いのちはいのちからもたらされる

 実はですね、先日私は山形県にある全寮制の高校に今年の4月から入った、一人の男子生徒といろいろお話したんですね。いや、今時そんな高校あるのかなというね、非常にね、すばらしい、山の中にある高校。もうね、携帯、なんぼつけてもね、圏外。もう、圏外なんです。で、インターネットもね、つながらない。もう山しかない。もうね、あの何にもほかにないというようなね、そういう所なんですけれども、彼はですね、ま、そこでね、全寮制の学生生活を送ってるんですが、そこはね、自給自足なんです。鶏小屋があって、毎朝卵とってね、それでね、食べる。豚小屋があって、そしてね、牛小屋があって、で、放課後ね、当番制で乳搾りするんですって。シュッシュッシュッシュッ、でね、乳搾りすぎてね、手の形が変形しだしたそうです。この人差し指と親指の間に挟んで、こう乳を搾るんですけどね、これずっとやってると、ちょっと膨らむんじゃないでしょうか、この、人差し指の付け根の、プリップリッ・・・って。これね、搾乳筋というそうです。乳を搾ると書いて、搾乳。これをね、高校三年生ね、小山のようにムニュって盛り上がるそうです。私もね、これで盛り上がる人知ってましたけどね。これで、盛り上がる、すげえ。ねえ。そしてね、最後、ここで飼ってる家畜ね、みんな生徒が食べるんです。  みなさん、出産から立ち会って、名前を付けて、面倒みて、お世話をして、情愛がたっぷり移った後で、それ食べるんです。みなさんは自分の家のペット食べれますか?家族の一員じゃない。でもそこの高校の方針はね、あえてそれさせるっていうんですよね。なぜならば、いのちっていうのはね、他のいのちを食べて初めて生きることができる、って。私たちは生きてるっていうのはね、自分の力で生きているんじゃない、他のいのちの犠牲の上に立ってるんだということを、食を通して学んでもらうためだっていうんです。

イエスの十字架の意味

   みなさん、私たちのこの肉体のいのちを支えるために、他の動物のいのちが捧げられなければならない。それと同じように、私たちの永遠いのち、のためにはね、全く罪のないイエス・キリストがあの十字架の上にかかって、私たちが本来受けるべき裁きを身代わりに引き受け、ご自分のいのちで償う必要があったのです。
 あなたのために、いのちを捨ててくださった方、そして墓に葬られ、3日目によみがえって下さったお方、死んでよみがえって、復活してあなたの救い主となったこのイエス・キリストはまさに、あなたのために来られた救い主なんです。どうぞこのイエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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