「捜すために来たキリスト」
ええ、私はですね、実は大阪から来ました。「実は」って言わなくてもね、言葉で大体わかるんです。まあ大阪のね、東住吉というね、まあ庶民の町で育ったんです。二軒長屋で育ったんですよ。私が小さい時にはですね、もう子供がゴチャゴチャゴチャチャ、たーくさんいてね、まあいつもね、近所のお友達と一緒に暗くなるまでね、よく遊んでたんですけども、ある時ね、それまでまあまあ仲良しだった友達が、突然口をきいてくれなくなったんです。「なんか気に障ったことでもしたんか。なんかあったら言ってくれよ」って言うんですけどね、言わない。私は何か、むにゅむにゅ、むにゅむにゅして気持ち悪いからね、まあ最終的にはね、その子のお母さんに理由聞いてもらったんです。「私一体ね、あの、どんなね、あの悪いことしましたか」と。そしたらですね理由が分かったんですね。あのね、かくれんぼしてたんです。かくれんぼして、たまたま私が鬼でね、「何々君見つけた、何々君そこや、何々ちゃんそこや」言うてね、まあそうやって遊んでたんですけど、大分ね、この日も暮れて暗くなったので、まあみんな見つけたんでね、「じゃあもうこれ最後にして帰ろう」って、「ほな(それでは)バイバーイ、また明日なー」と言って帰ったんですが、彼まだ隠れてたんですね。
皆さん、そのかくれんぼにおきまして、最後まで見つからなかったということは、隠れるのが上手であったということでこれは自慢していいことですよね。しかしながらですね、隠れているのに、見つけられる前に、遊びそのものが解散して、みんな家へ帰ったらですね、これちょっと意味が違いますよね。つまりね、忘れられた存在なのです。「僕なんかいてもいなくてもどっちでもいいと思ってるのか。大体高原そういうところ昔からあったよ!」みたいにね、そんなことないよ、それ別に。だけどね、ちょっと繊細な少年でしたね。私は探してもらえなかった、私はいてもいなくても、大きな影響をみんなに与える人ではない、誰も私のことを覚えていてくれなかった。どうして解散ってなった時に、でもまだ何々ちゃん隠れてるじゃない、一人も気が付かなかった。空気みたいじゃないかってまあ言ってね、まあ言われてたんですけど、私もね「それぐらいのことで怒んなよ」とその時は言ったものの、自分がされたら嫌だろうなあと思うんです。皆さんはいかがですか。自分自身がね、覚えられてる、自分自信はね、忘れられてはいない、自分はね、本当にね、自分の存在を認めてもらいたいと誰もが思ってるんじゃないかと思うんですね。
自分を思い出してもらえる喜び
これとはね、正反対のことをね、あるエッセイで読んだことがあるんです。コピーライターの糸井重里さんって方いらっしゃいますよね。『日刊ほぼ糸井新聞』っていうのをねインターネット上で出していますよ。ほぼ日刊と言うところがいいですよね。毎日日刊じゃない、ほぼ日刊、でもまあまあ日刊なんです。でね彼がね、いつもね少年時代に「大きくなったらどんな人になりたい?」っていう質問良くされたそうです。その時うまく答えることできなかったけど今だったら答えることが出来る、大きくなってるのに、私はどんな人になりたいか。例えば、友達同士が自分のいないところで集まって何か楽しいことしようとした時に「おい、糸井君も呼んであげようよ。あいついなかったら面白くないよ。あの子も呼んであげようよ。」という風に思い出して、探されるような人になりたいって言うんです。自分がいてる時だけ、ちやほやするんじゃなくてね、自分がいない時に、ああこんな時あの人がいてくれたらいいなあ、この楽しい何かをする時に、彼がいてくれたら、もっと楽しくなるのになあ、この美味しいごちそう食べる時に彼にも一緒に食べさせてあげたいなあ、と思い出されて、不在の時に自分の存在を思い出してくれて、そしてね自分を探してくれるような友達を持つ人になりたい。
神はあなたを探しておられる
皆さん、探してもらえる、これはね、探してもらえる人ってのはね、関心を持ってもらう人です。有名人とか世の中に特別な何か貢献できる人はね、行方不明になったら大騒ぎになるかもしれませんけど、みなさん、この全宇宙をお造りになった生ける真の神様にとっては、あなた自身の存在が探し求めておられる対象なのだ、神様あなたのこと、愛して大事に思って、あなたのことを求めておられるのだ、探しておられるのだと言うのです。神はあなたを探す神なのです。そして皆さん、私たちの造り主である神のこの創作が実を結ぶものとなるためには、実は探されている私たち自身の同意が必要なのです。
行方不明になった父親
実はね皆さん、今週ね、我が家でちょっと事件があったんです。私のね義理の父がね行方不明になったんですよ。ちょっと認知がですね入ってるんです。長男がね「これおじいちゃんプレゼント!」って言ってねもらうんですけど、次の日「何でこんなとこあるねん」っていうね、そんな感じなんですね。でね、家から自転車で五分ぐらいのクリニックの所にね行ったんですよね。まあ五分だったら帰り道分かるだろうな、もう、すぐ目と鼻の先。ところがね5時間経っても帰ってこないんです。まあその日は炎天下でね、普通の人でも炎天下で、ずっと5時間も、いてたら脱水症状なるんじゃないか、気を失うんじゃないか、もうですね病院に電話したら「もうとっくに出ましたよ。一時半には出ましたよ。」でもね五時間たっても返ってこない。手分けして探してもどこに行ったのか分からない、事件に巻き込まれたのかもしれない、倒れ込んでるかもしれない、段々段々ね悪いイメージばっかり出てきたんですね。
探されるものの協力も必要
それでね、家内がね、警察に行って届出してくれたんです。でね、お写真は?名前は?生年月日?本籍地?血液型?そして捜索願いを作った後でですね、家内に対してこの「指紋取らせて下さい」って言うんですよ。別に犯人みたいやん。指紋取られてね彼女言ってました。「もう悪いことできへんわ。」って、当たり前やん、それ。そんなん関係なしに、そんなん関係ない。やったら駄目じゃないですか、そんなのは。でね、その最後にね、「その警官が言ったことが忘れられない」って言うんですよ。「私どもでお父様を保護した時に、もしご本人が、『探されたくないんです!家族に言わないでください!』と言った場合はお知らせしません。」て言うんです。「ええっ!」て「どうしてですか!」。虐待の可能性があるからです。もしかしたらね、帰りたくなくて避難するためにその家を脱出してきたかもしれないではありませんか。だからもし聞いたときに「帰りたくない。私の居場所は知らせないでください。」と言ったらその場合お知らせしません。私はですね、それを聞きました時にね、捜索っていうのは探す者の努力も大事ですけど、探される者との協力関係が成立しないと実を結ばないのではないかと思ったのです。
諦めずに探し続けている創造主
今日、神様は聖書のメッセージを通して、また皆様の人生の様々な事件を通して本当の解決、本当のあなたの魂のふるさと、本当のあなたの作者である神様に立ち返りましょうというふうに探しておられるのですが、「いいえ、構いません!結構です!」と私たちが手を振りほどいてしまうならば、その神の捜索は届かないのです。もちろん神様は諦める方ではないですね。人の子は失われた人の価値をよーく知っておられるので、探すために来たのです。全く罪のないイエス・キリストがあの十字架の上にかかって私たちが本来受けるべき裁きを身代わりに引き受け、ご自分の命で償う必要があったのです。あなたのために命を捨ててくださった方、そして墓に葬られ三日目によみがえってくださったお方、このイエス・キリストは、まさにあなたのために来られた救い主なのです。どうぞ、このイエス・キリストを番組を通して、メッセージに触れて信じてください。心からお勧めしたいと思います。