旧約聖書
わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、「生きよ」と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、「生きよ」と言った。
(エゼキエル16:6)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.756 2014年9月21日

「失われた人のために来たキリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
 みなさん、こんにちは。本日はどうも、このようにお集まり下さいましてありがとうございます。
 実は、私は昨日の夕方、福島空港に着きました。そして、この、荷物の受け取り場所のところに行きましたら、ベルトコンベアに乗ったスーツケースがザーッと流れてくるんですよね。その、一番最初に流れてきた、その荷物を見て、ちょっとびっくりしたんですね。透明なアクリルケースの中に、12人のウルトラ一族が手をあげてるんですよね。ウルトラ一族というのは、ウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンタロウ、ウルトラマンエース、ウルトラの父、ウルトラの母とかいろいろ、12人。で、その12人がこの、協力しながら看板を、こう、手に持ってるんですよね。見ますとですね、「荷物間違えないように」というふうに、書いてありましたね。どうしてこの福島空港というのがウルトラマンずくしであるかと言いましたら、実は、福島こそは、ウルトラマンの生みの親である円谷英二監督の生まれ故郷なのです。そして、この円谷監督は実は、クリスチャンなのです。私は、自分の少年時代のヒーローを作ってくれたのは、福島県人であり、またその人が、私の信じる同じイエス・キリストを信じていたのか、ということを知りましたときに、ますますね、この福島が親しく、近しく、そんな気持ちになりました。
 お手元にこのようなプログラムの用紙があるかと思いますが、今日は、この第一部、一行目の部分から一緒に考えてみたいと思うのです。こう書いてあります。

 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

「失われた人」って誰ですか

 これは今から2000年前に、イエス・キリストが語られた宣言文です。「人の子」っていうのはキリストのことです。キリストがこの世界に来た目的は三つある、キリストは第一番目に、失われた人のために来た、第二番目に、捜すために来た、第三番目に、救うために来たのです。まず、「失われた人」のためにキリストは来たっていうんですけど、この失われた人って誰のことかお分かりですか。実は、この会場にいらっしゃる皆さんのことなんですよね。いや、別に何も失ってないけど、っていうふうに思われる方がいらっしゃるかもわかりませんけど、ここで言っている「失われた人」っていうのは、自分の造り主との関係を失ったまま生きている人のことなんです。創造主との関係を打ち切ったままで、失われたままで生きてる人のことを、聖書は「失われた人」っていうふうに言うんですね。

スイス経由でイスラエルに

カット
 今から15年ほど前、私は1つ忘れられないことがあるんですね。イスラエルという国に旅行に行ったのです。イスラエルというのはですね、イエス・キリストが誕生し、また歩み、十字架にかかった国、よみがえった国、バイブルランドとも言われてる、そういうところなんですけどね、  その、今から15年くらい前にイスラエルに行ったときに、実は、スイス経由でイスラエルに入ったのです。で、なぜスイスに回ったかというとですね、実はその当時ね、アインシュタインという天才の博士がいましたね、あのアインシュタインの物語をある雑誌に連載してたんです。ところが、もうひとつ、なんか面白そうな資料が無い、困ったなと思ってたんですが、実はですね、アインシュタインはスイスのチューリッヒ工科大学という大学を出てるんです。そこに行きましたら、アインシュタインアーカイブといってですね、まあ彼の資料が満載。それをごっそり持ち帰ってですね、役立てたいなということでスイス経由にしたんですが、実はですね、そこに行くのに先立ちましてね、私はですね、20年ほどかけましてね、イスラエルに関する学びのファイルを作ってたんです。この、クリスチャンになってすぐにイスラエルという国に関心を持ちましたので、まあ自分なりの、この研究ノートというかファイル、厚さ4センチ。ここにはですね、ヘブライ語のこととか、イスラエルの考古学のこととか、あるいはイスラエルで知り合った友達たちの住所録であるとか、またいろんな人にインタビューした、そのインタビュー記録ですよね、それがどんどんどんどんどんどん増えてね、まあ私にとってはそのね、20年間の努力の結晶なんですが、この、スイスでですね、無くしたんです。もうね、確かにカバンに入れたんですよ。さっきまで見てた。確かにカバンに入れた、でもカバンを開いたら無い、どうして!?もうね、入れた、無い、で仕舞いにはですね、ちょっと妄想でね、もしかしたら日本においてきたんちゃうか、みたいなね。いやさっきまで見てたんやソレ。それでですね、周りの人たちが気の毒がってね、私たちも探しましょうって自分のカバンを開けて、入ってるわけがない。もう苦労してどこにあるか無いかないか、まあ結論を申し上げますとね、見つからなかったんです。

失われたノート

 まあその時はね、へっこんだ。腹は出てるけどね、心は凹んだ。というのはね、店で売ってないのよ。世界に1つしかない。代用品がきかない。私自身の、ある意味で人生の20年間分の分身のような、そういうファイルだったんですね。それがなくなって、どこにも無い!いや、どこかにはあるんです。まあスイスのどこかにはあるんですね。スイスのどこかにはありますが、オーナーである私の手元にありませんよね。これを「失われたもの」って言うんです。物理的には、確かに存在してはいるでしょう。しかし、そのノートをこよなく愛し、そのノートの作成のために人生の何割かを注いできたそのオーナーの手元には無いときに、オーナーがどれだけ落ち込むのか。失われたファイルよ!GPS機能が付いてたら良いんですけどね。んなの無い。もうね、みなさん。今言いながらちょっと涙が出てくる。悔しくて。いや、みなさん、オーナーは、自分が大事にしているものをなくしたときに、大事な宝物が失われた宝になっていったときに、もう、切ない思いがするのです。

創造主はあなたのオーナー

 そしてみなさん、聖書が語っている神様というのは、実はみなさまのオーナーなのです。人間が手で造った神様じゃない。人間の宗教心がこしらえた神じゃない。人間「を」お造りになったかた。あなたの魂の第一原因者であるかた。この天地万物をお造りになった創造主のことを、聖書は、神とお呼びするんですね。その神様から離れて、神などいたとしても私は関係ない、と思って、神との関係を失ったまま生きている人は、神様の目に、切ない存在。ああ、何としても取り戻したいと、そのような思いを起こさせる、そんな存在だと言うのです。ところで皆さん、この失ったオーナーにとっても残念ですけどね、失われたものにとっては、もっともっと不幸じゃないかと思うんです。私の手元にあったら、大事に、指にツバつけてめくってもらえるじゃないですか。私にとっては意味がある。価値がある。とっても大事な宝物、でもね、スイス人がそれを見たってね、意味ない。日本語読めないから。日本人が読んだってね、意味ない。汚すぎて読めないから。これね、私が持たないと意味がない。

私の意味や価値

 みなさん、今ね、日本中で、あるいは世界中で、ほんとにね、心を病む人が多いんじゃないですか。どういうときに、人間ってね、心が病んでしまうかといったら、人格があるのに、無意味なもの、無価値なもの、あるいはモノ扱いされてしまうようなときに、私は人格なんだ!ということで、おかしくなるんじゃないですか。私の意味や価値を、こよなく評価することがおできになるオーナーを忘れて、私の意味も価値も見出すことができないような人のなかで、ドップリ浸かって生きるときに、私たちは、自分が少しおかしくなってしまうのではないかと思うのです。しかし、みなさん、神様はどんなかたでしょう。失われたもののために、救い主を遣わして下さるかたなのです。全く罪のないイエス・キリストが、あの十字架の上にかかって、私たちが本来受けるべき裁きを身代わりに引き受け、ご自分の命で償う必要があったのです。あなたのために命を捨てて下さったかた。どうぞ、このイエス・キリストを信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム