「年を経ても不変の聖書との出会い」
平成は30年をもって終わり、新しい元号に変わります。元号は新しい天皇が即位すると変わりますが、世界中で使われている西暦の基準は、過去に一度変わっただけです。
イエス・キリストが生まれた時以来、紀元後としてカウントされ始めたのです。今年はイエスが生まれて約2017年というわけです。また宗教改革から500年を迎えた年でもありました。
宗教改革とは1517年に、マルチン・ルターによってはじめられた聖書信仰の改革運動です。
英語でリフォメーションと言いますが、リフォームという言葉と関係があります。土台や元の家を大きく変えずに、作り直すことをリフォームと表現していますが、同じように聖書という土台はそのままで、人間が後から付け足した余分なところや、不要なところを改め、本来の聖書が語る信仰へ立ち返ろうとしたのです。このころから一般の人々も聖書が読めるように、聖書翻訳が各地で進められました。
宗教改革の60年ほど前に、グーテンベルグが発明した活版印刷は、聖書普及に大いに用いられました。そもそも彼が最初に印刷したのは聖書だったのです。
聖書は2000年前に完成してから全く変わっていないのです。時代によって言葉が変化することもあり、より正確な翻訳を目ざして今でも改訂がなされていますが、内容が変わるということはないのです。
一番古い部分からすると3500年間、全く変わらないのが聖書で、今でも多くの人が読み、人生を変えられ、なお研究がすすめられているということは本当にすごいですね。
真理によって自由がもたらされる
さて、この10日くらいの間に、日本人は世界から見ても珍しく、不思議な行動をとります。一週間前はクリスマスということで、盛り上がりました。
その華やかさだけを見ると、日本はキリスト教が盛んなのかな?と思われるほどです。 しかしそれが過ぎると正月飾りの準備にとりかかります。
今日大みそかには、お寺に行って除夜の鐘をつきます。年が明けると神社に行って、一年の家内安全、商売繁盛をお願いに行きます。
海外から見ると奇妙に感じられるものですが、私たちにとっては普通の光景でしょう。私も、これが普通と思っていました。何の疑いもなく毎年行ってきたのです。しかしあるとき聖書に出会いました。自分がしてきたことを改めて考えてみました。
深い信仰心でしたわけではない。ある程度は信じていたが、いざ何をどのように信じていたかと問われても、曖昧ではっきりしないものだ、ということがわかってきたのです。
聖書はまじめな真実なことば、として人々に語りかけます。聖書はある部分については曖昧さなしに、明確に私たちに語ります。
私たちを造られた創造主なる神はおられるとか、私たちは不完全な罪の状態であるとか、神は人間を愛して、救いをもたらしたいと願っているなどです。
聖書に次のようなことばがあります。
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたがわたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうに私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
多くの人がいろいろな意見を言っています。どれもはっきりしないので、自分の気に入ったものを、自分の思った程度に行う、という生き方もあるでしょう。このような年末年始の過ごし方は、その典型とも言えるかもしれません。
しかし「真理」という正しい情報があって、それが分かれば情報に振り回されることもないし、むだな労力、お金をつぎ込むこともないのです。
まさに真理によって自由がもたらされるのです。そういうことを教えられつつ、私は聖書に向かって行きました。聖書が神のことばである、確かに信頼できるものだ、という根拠はまず聖書自体にありました。
聖書の教えは神からのもの
印象的だったのは、聖書に人間の知恵を超えた情報がしるされているという事実です。
今から3500年前に、モーセは幼い時エジプトで、当時の世界最先端の学問を学んでいました。
医療についてもそうでしたが、なんとその当時動物の排泄物を傷口に塗るという方法が普通に行われていたのです。
その後、イスラエルの民と共にエジプトを出た指導者モーセは、創造主からことばを預かりました。モーセの十戒をはじめとする、律法と呼ばれるものです。
その中には次のような非常に変わったものもありました。
あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用を足すようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用を足してから排泄物を覆わなければならない。
集団で生活するときの排泄物の処理について、細かく規定しているのです。食事中であれば申し訳ありません、でもとても重要なことです。公衆衛生について語られた特別な個所です。エジプトで真反対のことを学んでいたモーセが、これをしるしているということを注意してください。
さらに驚くべきことに、エジプトで言われていた奇妙でひどい治療法は、遠くメソポタミヤやインドでもまことしやかに行われていたのです。
モーセが神からのことばとしてしるしたものは、当時の他の世界では全く言われていなかったことでした。人間が数百年前にやっと意識するようになった、衛生の観念を紀元前から神に示されていたのです。
実際に中世の時代、ヨーロッパでペストが流行したとき、このような方法で対応していたユダヤ人たちは、ペストの罹患率がとても低かったと言われています。
このような情報が聖書の中に満ちています。神が語られたと言われている情報を、一つ一つ見ていくと、単なる人間の考えや意見とは違うものであることに気づかされるのです。
聖書の主題イエスキリスト
聖書に対する信頼が増し加わった私は、聖書の中心主題である救い主イエスのことに注目しました。
先週楽しんだクリスマスは、約2017年前のキリストの誕生を祝ったものです。そのキリストは、聖書の中で繰り返し語られてきた預言の成就だったのです。
偉大な生涯を遂げて、亡くなった後にその誕生を祝うことは普通あっても、生まれたばかりの子が将来の活躍を期待して、喜んで祝われ、礼拝されたことなどあったでしょうか。
それもキリストの地上の生涯は十字架刑で終わります。これがあまりにも悲惨かつ衝撃的だったので、シンボルになったのではありません。十字架による死もあらかじめ預言されていたのです。
預言はそれだけでは終わりませんでした。イエスは死後、墓を突き破って復活を遂げるという預言もありました。そして預言通りにイエスが復活したのを、500人以上の弟子たちが見て証言しています。
終わり良ければすべて良し、ということわざがありますが、聖書の福音はそれ以上です。
イエスは死で終わらず、死後の世界の存在と、永遠のいのちのすばらしさを人々に示したのち、もともとおられた天に帰って行かれたと聖書は報告しています。
聖書に出会って、私のライフスタイルは変わりました。以前恐れていたことを恐れなくなりました。周りの影響でやらないと何となく不安に感じていたことも、しなくて平気になりました。
神社やお宮にも行かなくなりました。もちろんそれによってバチが当たったとか、不幸になったということもありません。
むしろその逆です。年末年始の過ごし方などは人生に大きな影響を与えないでしょう。しかし私たちの永遠のいのち、私たちの死後の世界に関わることについて、間違った情報や思い込みに縛られるのは、大きな損失です。
真理は私たちを自由にしますが、間違った情報に基づく行動は、不自由さと不幸をもたらします。
年が改まるこの機会、ぜひ聖書をひも解き、そこに示された神の義と愛、そして神の救いを見出されることを心から願っております。