新約聖書
『 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛がわたしたちに示されたのです。 』
(1ヨハネ4:9)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.926 2017年12月24日

「クリスマスの本当の意味」

おはようございます、高原剛一郎です!

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さて2017年も終わりに近づいて来ました。実は、今年は夏目漱石生誕150年、フィンランド独立100周年、スターウォーズ登場40周年、JR発足30年、そしてiPhone発売10周年だそうです。
過去にあった画期的なことを記念するため10年や、100年や、きりの良い単位でそれを思い返すということが良くありますね。
ところが、イエス・キリストの降誕を記念するクリスマスだけは毎年、毎年、毎年、世界中で記念され、祝われるのです。一体キリストの到来は人類に何をもたらしたと言うのでしょう。
今日はクリスマスの本当の意味についてご一緒に考えたいのです。聖書にこう書いてあります。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、愛があるのです。

ここから三つのポイントで考えます。

ここに愛があると聖書が語るキリスト

第一に、キリストの誕生こそは神のあなたに対する愛の現れであるということです。
幕末、薩摩藩が非常に大きな仕事をしますが、そのキーマンは島津斉彬という人でした。彼がまだ藩主になる前、長崎出島にいるシーボルトに会いに行くことになったのです。
当時、日本にいながら海外の先端技術に触れることが出来る唯一の窓口なのです。そのとき彼は弟も一緒に誘うんですね。しかし、彼の弟であった昌高は、中津藩奥平家の養子になっていて、その時すでに藩士となっていたのです。
当時の身分制度では現役のお殿様が訪問できるのは同じランクの人物だけです。それよりも身分の低い人物の所に、わざわざお殿様の方から訪問するということは許されない事だったのです。
それがたとい外国人のとびぬけた知識人であったとしても例外ではなかったのです。
しかし奥平昌高は非常に好奇心の強い人でした。彼は何としてもシーボルトに会いたいがために何と殿様をやめてしまうのです。
息子に家督を譲り、隠居の身になり下がることでこの問題をクリアし、長崎にまで出かけて行ってしまうんです。それは殿様の身分と引きかえにしてでもシーボルトから得る知識には価値があると考えたからです。
私はこの決断を理解することが出来るんですね。しかし、キリストは神のあり方を捨てて人間となってこの世に来てくださいました。一体そこまでしてキリストが人から得る物というのはあったのでしょうか。
キリストには人間から新しい知識や教えてもらわなければならないようなことなど一つもありませんでした。
しかし、一人子の神である方はイエスとなってこの世に来られたのです。いったい何が目当てでこの世界に来られたんでしょう。あなたです。
神から離れ、滅びに向かって一直線に落ちて行く人間を、神のもとに取り戻すためにわざわざ神の在り方を捨ててこの世に来てくださった方、それがイエス・キリストなんです。
ですから聖書は語るんです。「ここに愛がある。」

キリストによるいのちの保証

第二に、キリストは私たちにいのちを得させるために神が遣わしてくださった方です。
ライブドアの創業者でホリエモンの愛称で活躍中の堀江貴文さんは、かつて証券取引法違反で有罪判決を受け1年9か月間長野刑務所に入れられたという経歴があります。
彼はその時の生活を克明に記録し、発信なさっているのです。規則正しい生活と健康的な食生活で何と30キロも体重が落ちたそうです。
暖房が全くない部屋の中で信州の寒い冬はとことんきつく、靴下をはいても凍えてどうにもならなかったそうです。
また刑務所内の人間年関係でもずい分苦労し、我慢することが多かったようです。
しかし服役中の彼が一番しんどかったことはそういうことではなかったんです。それは毎晩消灯時間の後にやって来るものでした。
一体何でしょう。それは何でしょう。それは死の恐怖だと言うのです。
刑務所では夜の9時半消灯で翌朝の6時に起床です。この9時間半は布団にいなければなりません。
働き盛りの大人が毎日毎日9時間半も眠れるはずがありません。初めの1~2時間は、外でのことや今までのことを考えますが、そのうち考えることがなくなってくると子供の時に封印してきたあの暗黒の考え事が出てくると言うのです。
それは死が恐いということです。死んだらどこに行くんだろうか。死後の自分はどうなってしまうんだろうか。
実は彼が人一倍活動的であったのはこの死の恐怖を忘れるためだったのかもしれないのです。いや彼だけではありません。すべての人は実はこの死の恐怖の奴隷なのです。
そして、それは死が未解決のままになっているからです。しかし、キリストは死につつある私たちに命を得させるために来てくださったのです。
では命を得させるとはどういことでしょう。それは切れていた神との関係を結びつけて再生するということなのです。
私は先日スマートフォンを充電したつもりでおりましたが、バッテリーの表示を見ると全く充電できていませんでした。よく見ると途中でケーブルが外れていたのです。
エネルギー源との間に切断部分があったらエネルギーは流れ込んで来ませんね。人が死ぬのは命の源である神との関係が切れているからです。
この切断部分を結ぶためにキリストは十字架に架かって死んでくださったのです。そして三日目によみがえって命の保証をしてくださったのです。
罪はキリストの十字架で完全に焼き尽くされてしまったのです。

神からのプレゼント キリスト

ところで、アンデルセンの名作に『マッチ売りの少女』がありますね。大晦日の夜、マッチを売りに裸足の少女が出かけるのです。
もし売れずに家に戻ったらお父さんにぶたれてしまいます。
行き場のない彼女が、家と家の間の路地に入ってマッチを擦るとストーブに当たっているような気がします。しかし、マッチが消えるとストーブの幻影も消えてしまうのです。
2本目のマッチを擦ると光の中にお金持ちの家の中が浮かびます。皆で楽しい夕食会です。しかし、マッチが消えるとこの情景も消え失せるのです。
3本目のマッチでは美しいクリスマスツリーが見えます。何千本もろうそくがきらめいているのです。しかし、マッチが消えるとろうそくの光はみんな空に上って星になりました。
4本目を擦ると懐かしいおばあさんが光り輝く姿で現れるのです。少女はおばあさんを何とか引き留めるために残りのマッチを全部束にして擦ります。明るい光の中でおばあさんは少女を腕に抱き上げ、高く高く天に上って行きました。寒さもひもじさもない神のみもとに連れて行ったのです。
次の日の朝、一人の小さな少女は凍死していました。口元には微笑みを浮かべたままでです。
さてこの物語は日本では悲劇として語られることが多いのです。幸薄き少女に心痛める話となってしまうのです。
ところがアンデルセンは原作の結びでこう書くのです。「少女がどのように美しい物を見たのか、どんなに光明に包まれておばあさんと一緒に新年の喜びをお祝いをしに行ったのかを知ってる人は誰もいませんでした。」
この話はキリストを信じていたおばあさんと少女が、みじめに去って行ったというお話ではありません。そうではなく一番良いところに行ったというハッピーエンドの話なのです。
第三に、人生を究極のハッピーエンドで終わらせるために必要なことはキリストが全部代わりにやり遂げてくださったのですから、この神からのプレゼントを受け取っていただきたいのです。
神は世にキリストを遣わされました。今、神様はあなたにキリストを差し出しておられるのです。
どうぞイエス・キリストを心に受け入れ、神のいのちで生かされる人生にお入りください。心からお勧めします。

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