旧約聖書
『 主の御告げ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 』
(イザヤ55:9)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.919 2017年11月5日

「天地の差 神と人との違い」

おはようございます、高原剛一郎です!

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昔読んだコラムに、こんなことが書いてありました。
小学一年くらいの男の子が魚を釣って家に帰ったきたんです。お母さんが「どこで釣ったの。」と聞くと「わかんないけど、べからず、と書いてあるところだよ。」「それは、魚とるべからずって書いてあったんじゃないの。」「うん。そうだよ。」全く悪びれずに平気な顔をしてるので「うん、そうだよ、じゃないでしょ。とっちゃだめっていうことですよ。」すると男の子は「えっ。そうなの。」
実は彼は、べからず、の意味がわからなかったというのです。そんな古いことばは今どき誰も使わないからです。読むことはできても、意味を知らないと、結局わからないんですね。
それは聖書を読む時にも言えることです。たとい日本語に翻訳された聖書でも、なかなかピンと来ないという方が多いんではないかな、と思います。それは聖書がある意味で、専門用語で書かれてあるからです。
例えば、聖書の語る神は、日本人がイメージする神とは異なり、人が造った神ではなく、人を造った神なのです。聖書を理解するためには自己流で読むのではなく、説明を聴いていただくことがとっても助けになるのではないかなと思います。
ところでもう一つ、人が聖書を読んでも、なかなかピンと来ない理由があります。それは、聖書が神のことばであるからです。
もし人間の頭が考え出した思想であるなら、人間に理解しやすいものとなっています。しかし、神の考えは人には理解が難しいのです。なぜなら、神と人では発想も考えも視点も、まるで違うからです。
聖書の中にこのように書かれています。

主の御告げ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

人間の造り主のお考えと人間の考えは天と地ほどの開きがあって全く違うというのです。
どの点で違うのでしょう。三つ考えました。

神のお考えになる最善

第一に、人の考える最善と、神の考える最善は違うということです。
何が自分にとって一番良いことなのかを人は知らないで、ただこうあってほしいと欲望を満たそうとするのですが、神さまは深い考えで私たちを導く方なのです。
ニューヨーク州立病院のロビーに作者不明の詩がレリーフとなって飾られているそうです。「神の配慮」というタイトルです。

大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと 神に求めたのに 謙虚さを学ぶようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに より良きことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうと 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとし 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しもうと たくさんのものを求めたのに 人生を味わうようにと シンプルな生活を与えられた
求めたものは何一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されていたのだ

もし人が最善と考えることが何もかも実現し、すべて思いのままに人生が運んだら、人は鼻持ちならない人格になるに違いありません。
神ではないのに、神であるかのように錯覚し、人の弱さを理解できず横柄で気難しい者になることでしょう。
なぜそう言えるかというと、今も昔も歴史上に登場した独裁者がみんな横暴であるという点で、そっくりであるからです。独裁者はみんなに怖がられます。しかし、愛されないのです。
愛されない人は孤独です。神は人を孤独にさせず、正気を保てるように人生に制限を設けてくださるのです。
しかし多くの場合、人が思い通りにならなくなると、神よ、なぜなのか、と呪うようなことばを出すんですね。

神はあなたに様々な親切や恵みを注がれた

第二に、神と人では世界観が違います。
神はすべての人に向かって、最善を考えて呼びかけておられる方なのです。
たしかに世の中にはひどい不公平や残虐な事件がたくさんあります。その多くは神にではなく、人に責任があると思います。というのは、犯罪は神がそそのかして行わせるものではなく、人間が自分の欲におびき寄せられて行うものであるからです。
しかし神は、神から離れた一人ひとりに熱心に、情熱的に、呼びかけておられる方なのです。
ユダヤのことわざの中に、十人の人がいると、一人はあなたが何をしても反対する、二人はあなたの熱烈な味方になる、あとの七人はそのどちらでもない、というのがあるそうです。
そう思って学生時代を振り返ってみると、思い当たることがあります。また、YouTubeでの評価をみると、どんな偉大なアーティストのどんな名演奏でも、ダメ出しをする人たちが一定数いるんですね。
さてその時、敵対的な一人に注目する人は、人生っていうのは敵だらけで難しく、しんどいものだ、という結論を出してしまうことでしょう。しかし、熱烈な支持者の方に目を留める人は、人生って捨てたもんじゃないな、反対者の二倍も味方になってくれる人がいるなんて、それは素敵なことなのだと判断するに違いありません。
悲観的に人生を見ると、過去に良かったことなんか一つもなかったように見えてきます。しかし、決してそんなことはないのです。神はあなたが今日まで生きるのに、様々な親切や恵みを、いろんな人や出会いを通して注いで来られたのです。
良きものはすべて、良き方である神からのプレゼントです。この神さまは、あなたが神を求めて帰ってくることを、今この瞬間にも待っておられる方なのです。

神が用意された救いの道

第三に、人が考える救いの道と、神が用意された救いの道は、まるで違うという点です。
よく宗教とは山頂をめざす登山口のようなものだ、と言われます。一つの山には、複数の登山口がありますが、どのルートを通っても結局同じ一つの山頂に到着します。それと同じように世界にはいろんな宗教がありますが、どれもゴールは同じだ、同じゴールに行きつくルートの違いだけだ、という考えですね。
しかし、それは人間の考えです。その人の考えと180度異なるのが、神の考えなのです。
人は自力で山頂にまではたどり着くことでしょう。しかし、山頂の遥か彼方にある天には、昇る力がないのです。
修行すればある程度はモラル的に高みに至ることもあるでしょう。しかし、神の域にまで達するとは、誰もできないことなのです。
そこで神の方から地上のどん底にまで降りてきてくださったのです。この人となって、この世に降りて来られた神が、イエス・キリストなのです。
このキリストの自己犠牲である、十字架によって、いかなる人の罪も赦していただくことができるのです。
どうぞあなたも、十字架の上で死に、墓に葬られ、三日目に復活したイエス・キリストをご自分の救い主として信じ、受け入れてください。
そしてあなたの造り主のもとに、立ち返ってください。心からお勧めします。

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