「真の友を持つ幸い」
なみに、飛行機が墜落する確率は、20万分の1だそうです。世界一安全な乗り物と言われており、8200年間毎日無作為に選んだ航空機に乗って、1度事故に遭うか合わないかという確率が、20万分の1だそうです。また、ジャンボ宝くじの1等にあたらる確率が1000万分の1だそうです。
では、2400万分の1ってどんな確率でしょう。ほとんど起こらない確率なのですが、実は人が人生において、であい、知り合いになり、親しく会話できる人となる確率だそうです。
宝くじよりも難しい確率なので、えっと思いますよね。
人生70年とすると、私たちが接点を持つ人が3万人、知り合いになる人が3000人、親しく会話する人が300人いるそうです。もちろん、平均するとですけど。
これを70億人の人口で割ると、2400万分の1という確率になるそうです。
もし、親しく会話する人の中で30人が友となったら、その確率は2億4000万分の1っていうんです。もし親友とよべる人が3人だったら、それは24億分の1というんです。
実は、真の友を持つと簡単に言いますが、今お話ししたように、確率で考えたらそれは、ありえないこと。
でも私たちは出会います。そうです。聖書によれば、その出会いは、大いなる奇跡、神の導き、神のガイドなのです。
聖書にこんな言葉があります。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
私たちは、生まれた時代、住まいを選んでいません。性別も選んでいません。神はすべての人にふさわしい時代、住まいの境界を定めておられる、すなわち、出会いを導いておられるというのです。あなたが親しく会話できる人との出会いは、奇跡であり、背後に神のガイドがあると聖書は教えるのです。
聖書が語る真の友
では、真の友とはどのような人でしょう。あなたは、真の友と聞いてい、思い浮かべることのできる人がいますか。それは、どんな人ですか。
聖書にこんな言葉があります。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
聖書によれば、友とは自分が命を捨ててでも、幸せになってほしいと願う人のことです。私たちが考える友は、自分が幸せになれるために存在する人ではないでしょうか。
でもイエスキリストが語った友の定義は違います。自分のいのちを、その人のためなら捨てても構わないと思う人、それが友だと。
イエスキリストは、私たちのことを友と呼んでくださる方なのです。
イエスキリストはあなたの友となられる
最後通牒ゲームというゲームがあるのです。こんなゲームなのです。
二人一組になります。Aさんが100万円を受け取ります。ただし、このお金は自分だけのものにすることはできません。Bさんに与えなければならないのです。与える金額は自由にAさんが決めることができます。AさんがBさんに提案し、Bさんがその金額で承諾すると、その金額で二人とも受け取ることができるというゲームなのですね。でもBさんが承諾しなければ100万円は没収となります。しかも、相談してはいけません。Aさんは一度だけしか提案することができません。さて、あなたがAさんならいくらを提案しますかというゲームなのです。
このゲームをするとき、どれぐらい相手が承諾してくれるかを考えるのですね。これは民族や文化によって違うそうです。
アメリカ人は大体平均すると10万円を提案し、10万円でOKするのだそうです。日本人は30万から40万で承諾するそうです。アラブの人々は50万円ぐらいが相場で、だいたいそれぐらいで承諾するのだというのですね。
経済学の権威の方がこう言っています。ふつうは、半分を限界として相場が決まっていく。でもその二人の中に、友情があれば全部を与えることもあるというのです。
さて、友とはどんな人のことでしょう。
自分が受け取て幸せになるより、相手が全部受け取って喜んでいることを喜びとするという人のことではないでしょうか。
私たちを友と呼んでくださるイエスキリストは、私たちの神との関係の回復のために、十字架にかかり、命をお捨てになられたのです。
あなたが拒まないなら、この方はあなたの友となって下さる方です。
真の友なんていないと、孤独の中にある方、自分を中心に考えて悲しみに打ちひしがれている方、この裏切らない、苦しみを共有してくださる真の友であるイエスキリストを知ってください。
イエスキリストがともにいる喜びの人生
去年の暮れのことです。アディダスジャパンがFIFAワールドカップの準決勝の試合にわたしと長男を招待してくれました。
応募したキャンペーンに当たったのです。日産スタジアムのプレミアムシートのペアチケットです。
わたしと息子が座っている少し後ろの席に、ハリルホジッチ日本監督が座っていました。その私たちに座っている前には、鹿島アントラーズの選手たちが座っていました。しかもそのチケットはスタジアムキャプテンだという特別招待券だったのです。
選手がピッチに入場してきますね。その時、審判が試合で使うボールをもって、センターサークルに向かっていくのですが、そのボールを試合前に特別な台に設置する役割がスタジアムキャプテンの役割だったのです。
インタビューをする場所、ベンチ裏、ベンチ、ピッチ、選手入場のときにベンチ横から選手を見ることができるなど、ありとあらゆる特権がついていました。でも、選手には触ったり、挨拶したりは全くできなかったのです。
スタジアムに座っている人たちにすれば、有名選手の近くにいる私は、羨ましがられる存在だったと思いますが、その距離は実は遠かったのですね。
私はサッカーの有名選手と同じピッチに立ちながら、イエスキリストのことを考えていました。スター選手と同じピッチに立ちたいと思う人間、このみじめな弱い、罪にまみれた私と同じピッチに立ちたいと願ってくださったイエスキリスト。何という大義でしょう。
この世界をお造りになった神が人となってこの世界に来て下さった。私たち人間は人であるのに神になろうとします。しかし、神であられる方は人になってくださったのです。
しかも、キリストが私と一緒にいることを願ってくださったその理由は、私の幸せ、私の祝福のためなのです。この方は、あなたが応答するなら、喜んであなたのためにいのちをささげて下さる真の友です。真の友を持つ幸いは、全ての人に開かれています。
あなたがこのイエスキリストを知り、この方に結びつくなら、あなたの人生は喜びの中に入っていくのです。
心からお勧めいたします。