新約聖書
『 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」 』
(ヨハネ1:29)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.907 2017年8月13日

「世の罪を取り除く神の小羊」

おはようございます、高原剛一郎です!

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おはようございます、高原剛一郎です! 先日、演歌歌手・天童よしみさんのコンサートに付き添いで行った方が、「よかった、大ファンになった」と言われました。
天童さんの最初の一言で、心をわしづかみにされたというんです。
彼女は一体なんて言ったんでしょう。「か細いからだで、一生懸命うたいます!」って言ったんですね。
彼女はぽっちゃり体型のかたですが、それを少しも恥じていません。むしろその体を、迫力ある声量を生み出すための特注楽器のように大事にしておられるのです。
自分自身を恥じず、丸ごと受け入れている人の姿は、周りの人にすがすがしさを与えるようですね。
ところで、自分自身を、身も心も、見える部分も見えないところも、丸ごと受け入れることができたら、人生は楽だし、とっても楽しくなると思うのです。そしてそのようになるために、まず必要なことが、聖書に書かれてあるのです。それは、自分を造った創造主なる神様に丸ごと受け入れられ、愛され、恵まれている、ということを満喫することなのです。
今日は、神が人を受け入れるためにして下さったことを、聖書の中から考えましょう。
聖書に、こう書いてあります。

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

今日、この御言葉から、四つのポイントでお話しいたします。

神はあなたを造られた

第一に、聖書の語る「神の子羊」の「神」とは、創造主を意味している、ということです。
この間、死産で出てきた小鹿の解剖を親子で見学した方のお話をうかがいました。
生まれたての赤ん坊の小鹿を、死んでいるとはいえ、間近で見るのは、そこにいる全員が初めての事でした。そして、見てびっくりしたというのです。なんと、小鹿の四本足の先端に、柔軟性のある膜が、まるで靴下のようにぐるぐる巻きに巻きついていたからです。
生まれてきたときに、天然のゴム製靴下のようなものを履いて出てくるんですね。なぜ、こんなものをつけているのでしょう。鹿の赤ちゃんは生まれてすぐに、自分の足で立って歩き回ります。
人の場合は、一歳くらいにならないと歩けません。しかし、鹿や馬など草食性の動物は、誕生直後に自力で歩くんです。そして、歩くために、生まれたときにすでに鋭いひづめを持っているのです。
もし天然ゴムの靴下をつけていなければ、このひづめがお母さんの子宮をひどく傷つけてしまう可能性が高いんです。しかし、足の先端に大きなキャップがついているために、母鹿もダメージを受けることがないんですね。
ところで、これは偶然にそうなっているんでしょうか。靴下を履くメリットは、いま言ったみたいに説明することはできます。しかし、母親はおなかの中の子どもにそれを履かせることなどできません。
また、胎児も履くことはできません。そもそも鹿は、四本足ともひづめですから、何かを器用に装着することなどできません。
これは、ひづめを持って生まれてくる動物を設計した方が、はじめからそのように創造したと考えるのが、一番腑に落ちる説明なのだと思うのですが、いかがですか。
神様は、鹿の赤ちゃんの事まで心に留めて造ることがおできになる方なのです。ましてや、人間をどうしてお忘れになることがあるでしょう。神様はあなたを愛して造られた、あなたの作者なる方なのです。

神の主権を認めない生き方:罪

第二に、「世の罪」という言葉の意味です。
「世」とは、神を忘れて自己中心で生きる、人間の世界を指します。「世の罪」とは、神を無視して生きる罪の全てを指す言葉なのです。
この世界の全てをお造りになった神は、この世界のオーナーということができます。このオーナーを無視して生きることを、聖書は罪と語るんですね。
私の友人が以前、サイバー攻撃のようなものを受けたことがありました。スマートフォンのアカウントをのっとられてしまったのです。
彼のアカウントをのっとった犯人は、本人のように成りすまして、彼の友人のメールアドレスを取り出そうとしたり、iTunesで買い物をしたりしたんです。
買った覚えもないのに口座からお金がドンドン引かれていくので、ようやく気がついたのでした。
彼はかんかんに怒ったんですね。それは当然の事です。何の権利もない者が、本来、権利のあるオーナーのアカウントをのっとって、我が物であるかのように買い物をしてしまったからです。これは立派な犯罪ですし、そういうことをした犯人を罰するのは、誰も反対しないと思います。
ところで、それと同じようなことを人は神に対してしている、と言われたら、あなたはどう思われますか。この世界とそこにある全てのものは、作者である神のものです。
しかし、人はこの神の主権を認めずに、まるで自分のものであるかのように考え、自己中心的な考えで生きているのです。それで聖書は、この生き方の事を罪と語っているのです。

神は人を滅ぼされない

第三に、しかし、神はこの罪を取り除いて下さる方だ、というのです。
先日ある雑誌に、取り除いてしまいたいもの、消えて欲しいものは何ですか、というアンケートの結果がありました。
背中の刺青とか、嫌な記憶、とかローンとか、まあなるほどなあというものが出ていましたが、中にドキッとするものもありましたね。 自分自身と、自分の存在を知る人の記憶、とあったからです。自分の存在そのものを消してしまいたいという叫びに、私はとても危険なものを感じました。
どうして、そんなに自分が憎いんでしょう。自分でも軽蔑してしまうことをどうにも止めることができないで、習慣だけではなく、それを続けている自分自身をゼロにしたい、と考えているようなのです。
確かに、人はしてはならない行為を続けていると、自分自身が嫌になりますね。しかし神様は、世となっている人間そのものを滅ぼすのではなく、世の罪の部分を取り除いてくださるというのです。罪を永久処分することで、人を罪から解放して下さるのです。

罪の解決:キリストの十字架と復活

第四は、罪を取り除く手段です。それは、神の子羊が、十字架にかかって人の罪を背負って、身代わりのさばきを引き受けてくださることによるのです。
私は以前、山形の山奥にある全寮制の高校に通う生徒と話をしたことがあります。そこでは、キリスト教主義に基づく教育がなされているようですが、まあ基本的には、食べ物は自分達で手当てするというのです。
畑で作物を耕し、田んぼで米を作り、鶏を飼い、豚を飼い、牛から乳を搾って、それを飲食するというんですね。三年間乳絞りをしていると、親指と人差し指の間の根っこの筋肉が発達して、力こぶを作れるようになるそうです。
ところで、子どものころから世話をしてきた豚や牛を、生徒達は最終的に解体してもらって、それを食べるのです。中には、泣きながら食べる生徒もいるのです。人が生きていくためには、何の罪もないものが犠牲となるということを実感する瞬間なのです。それは、食事でありながら厳かな瞬間なのです。
神は、私たちの罪が赦されるために、イエス・キリストを神の子羊として送って下さいました。この子羊は、私たちのためにほふられるために遣わされたのです。この神の子羊の死と復活が、人の罪を取り除く土台となっているのです。
どうぞ、あなたも、イエス・キリストをご自分の救い主として信じ、永遠のいのちと、罪の赦しを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。

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