新約聖書
『 キリストは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 』
(1ペテロ2:23,24)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.902 2017年7月9日

「罵りと傷と罪を負ったキリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

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さて、ヤンキースを退団した松井選手と今も大リーグで活躍するイチロー選手は、高校時代からのライバルだったそうです。
松井選手がジャイアンツから大リーグのヤンキースに入団が決まった時、日本中が祝福したのですが、イチロー選手だけは異を唱えたと言われています。
どうして異論を唱えたのでしょう。ヤンキースに入団してしまったら、ヤンキースのすごいピッチャーたちと対戦できなくなってしまうからです。
イチロー選手にとっては大リーグを代表するピッチャーと試合で勝負できないことほど、野球選手として残念なことはないんじゃないか、そんな風に考えたんですね。一流選手の考えることは少し観点が違うんですね。
そしてこれは神さまについては、もっとそう言えるんです。
人が考える人の幸せと、神が考える人の幸せとでは大きな違いがあるのです。
人は今さえ良ければよいと考え易いものですが、創造主なる神さまは永遠の観点から見て人間の幸いを考えてくださっている方なんです。
そして人間に永遠の祝福をもたらすために、神はご自分のひとり子、イエス・キリストをおくってくださいました。
聖書にこうあります。

キリストは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

今日も三つのポイントでお話いたしましょう。

神を除外する生き方”罪”

第一に、すべての人間は罪人である、ということです。
キリストは何一つ罪を犯さず、実に恵み深い生涯を送られたのですが、最後は、ののしられ、あざけられ、十字架につけられたのです。
どうして人々はキリストをののしったのでしょう。ひと言で言うと、自分たちの期待に応えようとキリストがなさらなかったので、腹を立てたんですね。
ユダヤ人の昔話にこんな話があるそうです。
ある村にコーヘンという老夫婦がいました。ミリアムという娘を女中として雇うんです。ところが彼女はかなり奔放な生活をする人で、数か月すると遊び相手の子どもを妊娠してしますのです。
しかし、とても養っていけそうにはありません。不憫に思ったコーヘン夫妻は思い切って、生まれてきた赤ちゃんを養子に引き取り、さらにミリアムのことを思って、引き続き女中として雇ってあげたのです。
ところが次の年になると、またしてもミリアムのおなかが大きくなったのです。彼女は懲りることなく別の遊び相手との間に子どもを妊娠してしまったのです。
不憫に思ったコーヘン夫妻は、二番目に生まれた赤ちゃんも、養子として引き取り、そしてミリアムをそのまま女中として雇い続けました。
ところがある日のこと、ミリアムは憤然として夜中にコーヘン夫妻のところに怒鳴り込んできたというのです。
「契約違反じゃありませんか?」
「違反だって、一体どういうことですか。」
「雇用契約によると、夫婦二人の家事をみるということですよね。それなのに私は今、四人家族の世話をするはめになってるじゃありませんか。」
こういう厚かましい態度をヘブライ語では、フツパというそうです。彼女はコーヘン夫妻に散々迷惑をかけ、その上自分の身から出た錆の始末を彼らに負ってもらい、大きな厚意を受けて働かせてもらっています。
ところが自分中心に考えると、仕事を余計に増やされたという見方で怒っているのです。
しかし、自己中心で世界を見ると、恵みの扱いが不当な労働に、親切が詐欺にも見えてくるのです。なので恩人に向かって、ののしったのです。
キリストは良いことしかなさらなかった方ですが、人々からののしられ、あざけられ、否定されました。それはキリストが人々の気に入ることをしなかったからです。
人々の気に入ることとは、この世の中でもっと自由に、もっと快適な生活と社会をもたらすということでした。
当時の支配者であるローマ帝国を倒して、ユダヤ人の民族主義を満足させることであったのです。
しかし、キリストはその期待を堂々と裏切り、政治的解放の前に、罪からの解放のために、ご自分のいのちを使い切られたのです。
このように神を除外して自己中心の利益を追及する生き方を、聖書は「罪」と語っています。そしてすべての人は神の前に罪人なのです。

苦しみを受けられたキリスト

第二に、キリストは傷だらけの人間をいやすために、自ら十字架の上で、傷だらけになってくださいました。
先日私は長期入院されてる方のお見舞いに行きました。すると彼はぼそっと一言こう言ったんです。
「外から見舞いに来てくれた人の服には、病院の外の健康的な世界の匂いがする。その匂いをかぐと、ああ、自分はもう二度とそこに戻れないのだと思って、一層落ち込んでしまう。」
映画監督の黒澤明の自伝に、次のような文章があります。
「父の死の知らせを受け取った日、私は一人で新宿に出た。そして酒を飲んだが、ますます気が滅入るばかりだった。その時どこかのスピーカーからカッコーワルツが聞こえてきた。その明るい音楽はその時の私の暗い気持ちを一層陰鬱な耐え難いものにした。私はその音楽から、逃げるように足を急がせた。」
絶望の中を行く人にとっては、元気な人の明るく前向きな励ましは、時として大きな負担になります。励ましに応えようとして無理をするからです。
しかし、傷を負ってる時、傷を負った人の傷口はまるで毒を吸い出してくれる医療器具のような役割を果たすのです。
キリストは十字架にかかる中で、ズタズタのボロボロにされました。それは肉体の傷だけではなく、親しい友から裏切られ、最後は神からも捨てられたのです。
実は私はこのキリストの苦難の物語に、猛烈に魅かれます。キリストの受けた苦しみが理不尽なものであればあるほど、私は心の中の氷のような塊が融けていくような気がするのです。
もし今、傷にうめく方がいらしたら、どうぞキリストを見上げてください。この方の打ち傷はあなたを背負う傷なのです。

キリストが死を解決してくださった

第三に、キリストは私たちの罪を負って身代わりに死んでくださったが故に、すべての罪がこの方によって赦されている、ということです。
あなたはキリストの十字架と復活の故に、罪赦された人生に招待されているのです。
ユダヤ人作家、カフカが恋人のドーラと一緒に公園を散歩していると、一人の少女が泣いていました。大切な人形を失くしてしまったのです。
カフカは彼女に声をかけます。「お人形はね、ちょっと旅行に出ただけなんだよ。」
次の日からカフカは、人形が旅先から送ってくる手紙を書いて、毎日毎日少女に渡すのです。
実は当時のカフカは、重度の結核で余命はもう一年ありませんでした。しかし、彼は小説に向かう時のような真剣さで、手紙を書いたのです。
人形は旅先で様々な冒険をします。手紙は三週間毎日続いたのです。カフカはその手紙の最後、人形が幸せな結婚をした、という話で締めくくるのです。
少女は人形と会えないことを、この手紙で受け入れました。
ところであなたの人形は何ですか。あなた自身のたましいではありませんか。
そのたましいは、いつかあなたから離れていきます。からだからたましいが離れることを、死というのです。
しかし、そのたましいは罪赦されて、永遠の天国で究極の祝福に与かるとしたら、もはや死を恐れる必要はなくなるのです。
キリストはこのすばらしい結末をもたらすために、十字架の上で死に、よみがえってくださいました。
どうぞキリストを受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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