「死を支配下に置く人生」
というのは、120度で2時間加熱しても、水をかけたら普通に活動を始めるのです。
空気が全くない真空状態で1時間放ったらかしにしても、生きているといいます。マイナス195.8度でカチカチに凍結状態にしても、溶かせば普段通りに生活を再開するのです。
放射能や、超アルカリの化学物質を浴びせても、耐性を持っていて平気なのです。まさに地上最強の生命体です。
しかし、このクマムシは生まれて半年過ぎると、例外なしに死んでしまうのです。寿命だからです。凄まじいタフさを持っている生命体ですが、それでも、死には打ち勝つことはできないんですね。
なぜ死がプログラムされているのか
さて、この世界と、そこにあるすべての生命を神様は、何故、死をプログラムされたのでしょう。
どうして神は、死ぬものとして人を造られたのでしょう。
実は、神が死を初めから創造なさったのではありません。神という命の源から離れるという人間の選択の結果、後から死が入ったのです。
聖書にはこう書いてあります。
もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
ここから2つのポイントでお話しいたします。人には必ず死が待っている
第一に、最初の人間の違反行為によって、そのすべての子孫は死に支配されているという現実です。
最初の人間とはアダムのことです。アダムは神との関係を断ち切る選択をしてしまうのです。
その結果、彼が造られたときにはなかった死が、彼の中に入り込むのです。その結果を全人類が被り、人は死に支配されていると語るのです。
今年の3月、アメリカの億万長者デイビッド・ロックフェラー氏が101歳で亡くなりました。
巨大ビジネスに明け暮れた彼の活動は、実にグローバルで、なんと地球を200周したそうです。そしてアメリカの伝説的大富豪にして名門中の名門、ロックフェラー家の3代目当主として激動の時代を駆け抜けたのです。
ところで、随分さまざまなプレッシャーと戦ってこられたのに、101歳まで生きるとは、すごくタフな方だったと思われることでしょう。実は彼は生涯に6回心臓移植手術をして生き延びてきたのです。
つまり、自分の持って生まれてきた心臓を含めると、7つの心臓をとっかえひっかえしながら生きてきたというのです。
心臓移植手術には莫大な費用がかかりますが、彼はそれを何度も繰り返すだけの、十分な財力がありました。しかし、どんなに新しい心臓を入れ替えても、最後は、死を克服することはできないのです。
パーツを交換しても、命そのものには限界があるからです。いかなる最先端の医療技術も死の前には膝を屈するのです。
ところで死とはどういう現象を指すのでしょう。聖書によると、それは魂と身体の分離であるというのです。
生きている間、私たちの身体には魂が宿っています。しかし、この魂と身体が分離していく時が来ます。それが「死」です。そして、身体から離れた魂という人間の本質は、一人一人に神の前に立って、審判を受ける時がやって来るのです。
人には魂がある
これに対して異議を唱える考えがあるということを、私も承知しています。
魂なんか無い、心や人格や魂というのは、脳の反応の結果にすぎず、脳が活動を停止すると、魂も消滅し、死後の世界や魂なんかないっていう考えですね。いわゆる唯物論、あるいは唯脳論といわれる考えです。
しかし、医学者の中でも、これに異議を唱える方々がおられるのです。その1人にアメリカの脳外科医だったワイルダー・ペンフィールドという博士がいます。
今から40年ほど前に亡くなられたのですが、彼が書いた『脳と心の神秘』という本の中には、脳外科医として、魂の存在を認めざるをえないというエピソードが数多く記録されているのです。
彼はてんかんの治療のため、頭蓋骨を取り外して、脳をむきだした状態の患者と会話をしながら、脳の全体に電気刺激を加え、その役割を調べたのです。
例えば脳の運動野という部分に、電気刺激を加えて手を動かせたとき、その運動をどう考えるかと患者に質問すると、「私が動かしたんじゃありません、先生がなさったんです」と答えるというのです。
電気刺激で声を出させたときは、「私が声を出したんじゃありません、先生が私から声を引き出したんです」。
また、彼が記憶の再生部を刺激すると、患者は、自分が過去と現在を同時に意識していることに気づいてびっくりしたというのです。
しかも、このような刺激で再生された記憶は、普通、思い出そうとして思い出す記憶よりも、はるかに鮮明なのです。にも関わらず、今、自分が何をされているかについても理解しているのです。
もし、脳が魂を生み出しているのなら、外からの刺激で魂や心を操作することができるはずですが、患者は脳を操作されていることを客観的に見ている、もう1人の自分の意識を明確に持っていたのです。
ペンフィールド博士の結論は、脳とは別に、魂の存在を認めざるを得ない、というものでした。魂はあるのです。
クリスチャンの行き先、天国
第二のポイントは、死んで三日目によみがえったイエス・キリストを信じる者には、キリストの復活の事実が転嫁されるということなのです。
そして、ひとりの人イエス・キリストによって、信じた人々は死を支配するのだというのです。
もちろんクリスチャンになっても死にますよ。しかし、その死は天国への玄関口にしか過ぎず、いわば魂を天国に連れて行く乗り物に過ぎなくなってしまっているのです。
くまモンの作者、小山薫堂さんが友人たちと共に長崎の港までドライブに行ったのことです。地元の漁師らしき人が、ちょっと海の散歩にでも行かないかと誘ってくれたのでした。
「いいんですか?」と喜んだ小山さんたちは、漁船に乗って沖へ出ます。ところが、いつまでたっても岸に戻らないのです。
そのうちに、彼らはだんだんだんだん不安になってきたのです。もしかしたら、港に泊めてある車が、漁師の仲間によって車上荒らしにあっているのはないか。いや、港に戻ったら一人一万円ずつぼったくられるのではないか。いや、もしかしたら拉致されるのではないか。まあ、生きた心地がしなかったというのです。
ところがもうしばらくすると小さな島に着いたのでした。そこには隠れキリシタンの礼拝堂があったのです。この漁師さんは、漁に行く前と戻ってからいつもここで祈りをささげているというのです。そしてこの祈りのほこらを見せたいと思って沖にまで出たのでした。
小山さんたちが不安に思ったのは、どこに連れて行かれるのか分からなかったからです。しかし、見せてもらった礼拝堂に、心が洗われるような思いがしたというのす。
クリスチャンも死にます。しかし、それは、得体の知れない世界に行くのではありません。自分をあがなってくださった方を、目の当たりにする世界に行くのです。
天国は本当にあります。どうぞ、あなたもキリストを信じ、天国の国籍をいただいてください。心からおすすめしたいと思います。