新約聖書
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
(ヨハネ15:13)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.862 2016年10月2日

「非常識なまでのキリストの愛」

おはようございます、慶相龍です!

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ヒマラヤ山脈で有名なネパールという国はアジア最貧国です。
知り合いのネパール人が、韓国を訪問した時のことです。彼を招いてくれた韓国人は、韓国のことをよく知ってもらおうと、歴史博物館に彼を招待しました。そこには韓国人がずいぶん昔に使用していた骨董品のような農機具が展示されていました。彼はそれらを不思議そうに見ながら、こう言ったそうです。「ここにある農機具はネパールでは今でも使われている最新モデルです。」そんなかんじでしたので、見るものすべてが新しい韓国はネパール人の常識を超える非常識なまでにすばらしい国だったと彼は話してくれました。
実はイエス・キリストの愛も、あなたの常識を超える、非常識なまでの愛です。聖書の箇所を紹介しましょう。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

今日は、非常識なまでのキリストの愛というテーマで、二つのことを確かめたいと思います。

友からの裏切り

まず一つ目は、キリストの愛は非常識なまでの強い意志に基づいた愛なのです。
人間の愛は条件付きの感情的な愛です。しかし、イエス・キリストの愛は、無条件の、そして意志に基づく愛なのです。
イエス・キリストはご自身に敵対するユダヤ人に捕えられ、不正な裁判を受け、十字架で死刑にされます。イエスは弟子たちを、友と呼びましたが、その中にはイスカリオテ・ユダという裏切者の弟子がいました。その他の弟子たちもみな、イエスが捕えられた時、イエスを見捨てて逃げたのです。
私は中学生時代に、クラスメイトからいじめを受けており、クラスではあまり友だちがいませんでした。しかし、私には別のクラスに一人の友だちがいました。下校すると毎日のように彼の家で楽しい時を過ごしました。
私は彼を親友と考えていました。ところがある日、目を疑うような出来事がありました。なんと親友と考えていた彼が、私に嫌がらせをするクラスメイトたちの中に交じって、彼らと共に私を侮辱して叫んでいるのです。
ショッキングな事件でした。それ以来、私にとって彼は親友ではなくなりました。そればかりではなく、感情的に彼のことをどうしても友と呼ぶことができなくなってしまったのです。
もし、もう一度彼を友と呼ぶことができるとするなら、それは感情によるものではなく、彼を友と呼ぶのだという意志だけがなせる業だと思います。しかし、もしそのような意志を働かせて、彼を友と呼んだとしても、私は彼のことを心から友と考えることはできなかったを思います。

イエスは裏切った者のために命を捨てられた

ところがイエス・キリストはご自身を裏切った弟子たちを心から友と呼ぶだけでなく、その友のためにいのちを捨てられたのです。
そして、神を無視して神から離れて生きている罪人であるあなたを、友を呼び、あなたが罪赦されるためにあなたの身代わりとなっていのちを捨てられたのです。このイエスの愛の背後には、イエスの非常識なまでに強い意志が働いているのです。
それはあなたがどんな人であったとしても、それでもあなたを心から友と呼ぶ、それでもあなたのために喜んでいのちを捨てるのだという、強い意志なのです。
いつでも、どんな時でも、変わらずあなたに向かっているこのキリストの愛をどうか受け入れてください。

韓国での半年間の無給生活

二つ目に、キリストの愛は非常識なまでに犠牲的な愛です。
私はかつて約三年間、家内と共に韓国に住み、二人で日本語の講師をしながら韓国語を勉強したことがあるのですが、韓国に行った当初、大変困ったことがありました。私たち夫婦の勤めていた語学学校が、経営難に陥って、約半年間も給料をもらうことができていなかったです。
事情があってその語学学校を辞めることもできず、私たちは手持ちのお金でやりくりしながら、耐えるしかありませんでした。今だから言えることですが、スーパーマーケットでは10円でも安い食材を探し求めるというありさまでした。
そんな時、疲れからでしょうか、家内が高熱を出して倒れてしまったのです。もともと韓国での生活を希望したのは私でしたので、家内に苦労をかけていることが、申し訳ないと同時に、文句も言わずに私の夢に協力してくれる家内が不憫で、健気で、私は泣きたいような、情けないような気持ちになりました。
そんな時、突然、ピンポンと玄関のチャイムが鳴ったのです。韓国人の友人でした。扉を開けると彼は、スーパーのレジ袋を差し出してきました。その中には味付けした豚バラ肉がいっぱいに入っていました。「奥さん、大丈夫。これ、勝手に買って来ただけだから、気にしないで。」そんな言葉を残して、彼は帰って行きました。

泣けて泣けて仕方なかったわけ

私はアパートの小さなキッチンでフライパンを使って肉を焼き始めました。すると、驚いたことに、肉の香ばしい匂いに釣られるように、高熱で寝込んでいるはずの家内も起き上がって来たのです。そして二人して焼きたての肉を、フライパンから直接箸でつまみ、次から次へと口に運んだのです。アツアツの肉をほおばりながら、私の目からは涙があふれて止まりませんでした。ふと見ると、家内も泣いていました。肉がおいしかったから泣いていたのではありません。
実はその友人は私たちとは別の会社に勤めていたのですが、その会社も経営難で、彼は私たち夫婦よりも長い間、給料をもらえず、私たち夫婦よりも経済的に苦しい人だったのです。彼は、生まれ育った日本を離れて、自分と同じように給料がもらえずに苦しんでいる、しかも、家内が病気で苦しみ、心細くなっている私たちのことを、自分自身のことのように心配して、私たちのために何かをせずにはおれなかったのです。
私たちのために、何かをしようと心に決めて、スーパーケットに行って、何をどれくらい買ったらよいかと一生懸命考えて、なけなしの金を使って、味付けの豚バラ肉をどっさり買ってきてくれた彼のことを思うと、こんな友を持てたことが、うれしくてうれしくて、泣けて泣けて仕方なかったのです。

キリストよりも大きな愛はない

しかし、私にとってこのように貴い友も、キリストとは比べることはできません。地上のどのような友も、キリストと比べることはできないのです。
イエス・キリストは罪のさばきとして、あなたが地獄に行くことを、自分自身のことのように心配してくれるあなたの友なのです。
神であられるのに、人とならずにはおれなかった、あなたの友なのです。
あなたの罪の贖いのために、人となってあなたの身代わりに十字架で死なずにはおれなかった、あなたの友なのです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は、キリスト以外には誰も持っていません。神であるキリストは人となって、あなたを友と呼び、あなたのためにいのちを捨て、それだけではなく、あなたの敵である死に打ち勝って、復活してくださった、かけがえのないあなたの友なのです。
どうか、こんなにもあなたを愛しておられるイエス・キリストを信じてください。この方をあなたの救い主と受け入れ、罪の赦しと永遠のいのちをあなたのものとしてください。心からお勧めいたします。

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