新約聖書
「イエス・キリストは、私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」
(黙示録1:5-6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.860 2016年9月18日

「愛によって身代わりになられた救い主」

おはようございます、高原剛一郎です!

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いつもこの「聖書と福音」を聴いてくださいまして、ほんとうに心から感謝しております。
私は先日、ある養護教諭の先生のお話をうかがったんですね。皆さん、最近はね、小学生でもうつ病になるんですね。抑うつ状態といっていいか。
私はですね、子どもっていうのはとにかくエネルギーがありあまっててね、走り回る、飛び跳ねる、それが子どもだと思っておったんですけれども、でもいろんな理由でね、気分が沈んで体が重くて、考えることがいちいち悲観的で、何かですね、もう教室にいたたまれなくなって保健室に連れてこられるという小学生のお子さんが少なくないのだ、というんですね。
そういうふうにもう、しんどい、しんどいと言っている、でも熱はない、そういう子たちをどういうふうにして休ませるのか。今までは保健室のベッドで寝かせてたんですけどね、ある方の提案で、ちょっと風変わりな休ませ方をすることによってね、回復度が俄然、よくなったっていうんです。
どんな方法であるかというとですね、段ボール箱の中に入ってもらうっていうんですよ。(笑い声)
すごく今ウケましてありがとうございます。昔そういう生活なさってたのか…(笑い声)
その段ボール箱っていうのはですね、特に、ぶかぶかの段ボール箱じゃなくて、体を折り曲げなければ入れないような、窮屈な段ボール箱の中に入ってもらうっていうんです。で、しばらく休んで出て行く。
今度はね、しんどいときだけじゃなくって、元気なとき、嬉しいとき、何か保健室の先生に報告したいときにもね、段ボール箱の中に入ってもらう。で、この段ボール箱を卒業したら今度はハグをぎゅっとしてね、そうやってね、元気になっていく子たちがいるんです、と言うんですが、これは何のことですか、と聞きますとですね、実は、胎児時代の追体験だというのです。

守られたいという気持ち

人間というのはですね、一生の間、いろんな時代がありますよね。幼少期、少年期、青年期、思春期、青年期、中年期、老年期。でも、一番守られていた時代っていつかというと、お母さんの子宮の中でくるまれているときです。お母さんのお腹の中ですっぽりくるまれて、そして養われているとき、本当の意味で安全で、守られているときですよね。その子宮の、胎児時代の追体験。これがね、ダンボールの中に入るということだっていうんです。
偉大な存在によって守られたい、そういう気持ちが全ての人に存在しているに違いない、ということについては私は心から同意することができます。
さて、お手元にこのようなプログラム用紙がありますが、右のページの上のほうに、聖書のことばが印刷されております。こう書いてあります。

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である

「私たちを罪から解き放った」って書いてあるんですね。

ハワイのとっておきの場所

私は以前、ハワイのマウイ島という所にしばらくお邪魔したことがありました。そこにですね、私の友人が住んでるんですね。
で、彼の家にホームステイしながら、マウイ島の日本人の方たちに聖書の福音を伝えるということをしたんですけれども、その友人がですね、「高原さん、明日ね、とっておきの場所に連れて行ってあげますよ!もう、観光客が行かない秘境。もうね、素晴らしい砂浜があるからね、そこに行きましょう。そこに行ってね、しばらくね、聖書を紐解いて考える時間を持ったらいかがでしょう」。
賛成!つってね、「朝五時半です」反対!ってことで(笑い)。早起き苦手なんですね。
まあでもね、日の出が美しいんだ、太平洋の水平線のところから太陽がウワーっと出てくる、素晴らしいから!ということでですね、まあ行ったんですが、もうひとっりもいない、そこ。でね、砂浜っていったら皆さん、ふつうですね、真っ白ですよね。真っ黒なんです。そしてですね、しばらくずーっと日の出を待ってたらですね、岩がググッ、ググッ、ググググッと動くんですよ。ええっと思って見たら、ウミガメ。

揺るがない基準とぶれる私

いやあ、こんなところがあるのか、今振り返っていったときに、本当に一生の思い出になるような光景だったんですが、一時間ほど過ごして、さあ帰って食事でもしましょうということで、振り返って車のほうに向かいだした時に、おやっ、とひとつのことに気づいたのです。
それは私たちがつけた足跡です。車から海岸の所まで、私たちはまっすぐに歩いてきたんですけれども、まあこう振り返って見ましたらですね、蛇行してるんですよね。右にふらふら、左によれよれ。なんかこう、私たちとしては、あの海に最短距離でまっすぐ、といって歩いたつもりなのですが、遠い地点から見るならば、本人の感覚とは裏腹に右に曲がったり左に曲がったりしているっていうのを見ながら、少し、考えさせられたんです。
人間として、できるだけまっすぐに生きたいなあ、裏表のない人生を生きたいなあ、真っ正直に生きることができたらいいなあ、と私も願っていますが、自分なりに精一杯のまっすぐというのは、必ずしもまっすぐではないということなのです。自分としてはまっすぐ生きているつもりなんですけれども、もっと正しい基準に照らしてみるならば、実は私のまっすぐは、アテにならない私なりのまっすぐであって、それは神様という基準に照らしていったときに、曲がっているということが多いんですね。
神様という、揺るがない絶対基準に照らし合わせたときに初めて、ああ、私はずれてるんだなあ、私は的をはずしてるんだなあ、私は間違ってるんだなあということが分かるんですが、神様から離れて、神なんかいない、という人生観で生きると、その結果、自分自身が神になるのです。自分自身が基準になるのです。

罪からの解放

人は皆、自分真理教なのです。そして、自分自身が絶対中心者であるときに、自分自身が罪人であるということが見えなくなるんですね。そして皆さん、この罪という問題、神様との関係が切断されてしまった状態、このことが一番いたましい、悲劇的な結末を生む、その結末とはいったい何かというと、人間は死んで終わりではない、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている、と聖書が語っているからなのです。
この、神様から離れた人間の結末は、永遠に神様のいない世界に落ちるということです。私たちが自分の造り主と正しい関係に入るために、どうしても、この罪の問題の解決がなければ、立ち戻ることができないですね。
しかし、この5節の3行目に「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放」ってくださった、って書いてあるんですね。神を呪い、自己中心に生き、そんなものは関係ない、とうそぶく人間のために、イエス・キリストは一方的に私たちを愛して、愛のゆえに、愛して、その血によって、いのちによって私たちを罪から解き放ってくださった。
義務によってではない、押し付けられたのではない、愛によってあなたの身代わりをかってでた方、あなたの代わりに十字架にかかって、私たちが死後に受けるさばきを全部、たったひとりで引き受けて下さった方、この方こそは、あなたの救い主なのです。
ぜひ、このイエス・キリストを信じ、受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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