「進化論という迷信」
語り合った科学者は素粒子研究の第一人者益川敏英さんと、iPS細胞の山中伸弥さんです。お二人とも小学校の時には成績が悪くて、益川さんの場合、1以外の全ての数字が通知簿にあったんだそうです。ところがこの二人が、それぞれにのめり込んでいくものに出会ってから研究から離れられなくなっていきます。というのはお二人にとって、考えるという事は感動することに繋がっているからだそうです。一度感動することを覚えてしまうと引き返すことが出来なくなるんだそうです。
「大発見』の思考法」 より
ところでこの本の最終章は大変興味深い物でした。神はいるのかというテーマで語り合っているからです。その部分を抜粋で少しご紹介いたしましょう。
「ところで山中先生は特に宗教を意識されたことはありますか。」
「ええ、苦しい時の神頼みはよくします。研究に行き詰まると神様助けて下さいって、私そういのは節操がないんです。生物学をやっているとそれこそ、これは神にしかできないと思うようなことがたくさんありますから。」
それに対して益川さんが答えられるんですね。
「医学系の先生の中には、ここ二十年くらいの間にクリスチャンになっている方々が結構多い。子どもの頃からクリスチャンというのではなく、五十歳前後になってから洗礼を受けられてるんです。それは多分命と日々向き合っているから、宗教や救いによりどころを求めたくなるんだと思います。悪い事に僕は無宗教なんです。それもただの無宗教じゃなくて積極的無宗教。」
山中さんが、「それは宗教を信じないという事ですか。」
「いや、信じないのではなく、信じている人を止めさせる方です。」
つまり増川さんは神はいないという事に確信を持っている方なんですね。その増川さんに山中さんが話を振ります。
「例えば、アメリカの今も人口の約半分が進化論を信じていないと言われます。」
増川さんは、「そういう話を聞くと日本人は進化論を信じないなんて怖いなぁと思うかもしれませんが、実は、進化論を信じるのはある意味では怖い事なんですよね。」
それに対して山中さん、「はい、なぜなら進化論はまだ誰にも証明されていないからです。なぜか日本人は人間は皆、猿から進化したと信じていますが、証明はされていない。そのうちダーヴィンの進化論は間違いだったという事になるかもしれません。」
進化論は証明されていない
さて、ここで山中さんは3つの事を語ってます。まず進化論は誰によっても証明されたことがないという事です。そのように聞くと日本人は吃驚してしまいますね。というのは証明されたと思い込んでいるからです。全国各地にある自然史博物館に行くと猿と人間の中間型のような原人のイラストがでかでかと掲げられています。それでてっきりそのような原人が化石になって発見されたかのように錯覚しています。
しかしあのイラストのような全体骨格の化石は一つも発見されてません。たいていは何十メートルも離れた所から見つかった頭蓋骨の一部や歯の一部、大たい骨の破片を無理やりに同一人物の骨として組み合わせたに過ぎないのです。私の見た資料では北京原人の頭蓋骨が発掘された地層の下にある地層から、現代人の化石が出て来たという記録があるのです。言うまでもなく下の地層の方が古いわけです。人類の祖先の骨が人類の化石より新しい地層から出てくるはずはありません。したがって北京原人は人類の祖先ではありえないのです。
しかし、このような情報は一般公開されることはまずありません。つまり私たちは編集された情報を聞かされているのだという事が言えるのです。
自然科学では実験による再現性の証明とその記録の二つが残っていなければ、これは科学という事はできません。しかし、進化論にはその二つともが欠けているのです。ですから科学の名に値しないという事もできるのではないでしょうか。
人間のルーツは何か
第二に、証明されていない進化論を信じることに素朴な疑問を抱いておられるという事です。どうして日本人は自分のルーツを猿だと信じているのでしょうと。それは進化論にかわる人間存在のルーツを聞いてこなかったからだと思うんです。進化論以外に人間をはじめとする自然界のルーツを説明するものを聞いてこなかったということが大きいのではないでしょうか。
では進化論以外に人間のルーツを説明するものとはなんでしょう。それは創造主がこの世界とその中にある全ての命あるものをお造りになったという事です。
神にしかできないことがある
第三に生物学をとことん極めていくとこれは神にしかできないと思うようなことがたくさんあると証言しておられることです。命のメカニズムは細かく研究すれば研究するほどじつに見事に賢い造りをしているという事が判明してくるようです。見事なシステムは偶然、出鱈目に任せていても生まれては来ません。それは見事な知性による設計と考える方が理にかなった事だと思うのです。
ところでなぜ進化論が危険なのか私なりに考えてみました。進化論が人間の存在の原因であるとするなら、人間を造った神などはいない。それは神話だということになります。と同時に善悪の基準は全て人間が好き勝手に設ける事が出来るようになるという道を開くのです。というのは全ての進化の最先端、最高峰である人間は地上の自然界でもっとも賢い存在という事になります。もっとも賢くもっとも進化した人間の判断は最も正しい判断だという結論に至っていくのは当然です。
つまり、何がしてもいい事で、何がしてはならないことなのか。善も悪も正義も不正も全て人間が好き勝手に決める事が出来るということになるのです。この進化論の思想は一言で言うなら人間が神になる思想なのです。そして聖書は神を押しのけて、自らを神のようにふるまうことを罪と語っているのです。そして、その行きつく先は人間にとって幸せな事ではなく、不幸な事です。無秩序と争いと最終的な結末は永遠の滅びなのです。
神のもとへ帰る道
しかし、聖書にこのように書いてあります。
それゆえ、主はこう仰せられた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。」
不思議な言葉ですね。もし人間が神に帰るならば、神は人間を帰らせるというのです。人間が自分の造り主のところに帰ろうとするなら、帰るために必要な道、帰るために必要な許し、帰るために必要な力の全てを神が与えるという約束なのです。自分の造り主のもとに帰る道はたった一つ、イエスキリストを自分の救い主として信じることだけなのです。
どうぞあなたもキリストの前に一歩踏み出してください。二歩目からは神が力を与えて下さるのです。どうぞその幸いな決心をしてくださるように心からお勧めしたいと思います。