新約聖書
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」
(ルカ5:32)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.793 2015年6月7日

「罪を自覚する秘訣」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 私は昨年、関西学院大学で死生学について講演する機会がありました。美しいキャンパスでしたね。この大学はイギリスのウェスレーという神学者の考えの流れにあるそうです。ところで、このウェスレーという人のお母さんは、19人も子どもを産んだんです。そのうち、7人は幼くして亡くなりました。ですから彼女は12人もの子たちを、非常に立派に育て上げたんです。それである方が彼女に訊いたんですね。「12人のお子さんの中で、一番手をかけたのは、どのお子さんですか。」すると彼女は言いました。「熱を出して苦しんでる子がいたら、熱が下がるまではその子に手をかけます。家出してる子がいたら、戻ってくるまでは、その子に一番できることをしてやります。」要するに、順調な子どもよりも問題を抱えている子どもに一番心を遣うっていうんですね。

あなたを心配している神

 これは神さまも同じです。もし問題を抱えている方がいらしたら、どうぞ覚えてください。神さまはあなたに心配っておられるのです。そして神さまが何よりも、問題視なさっておられること、それは人が罪人のままで生きているということなんです。なぜなら、人は自分の罪を解決しないままで死ぬなら、死後に永遠のさばきを受けなけらばならないからです。
 ある時、キリストはこう言われました。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」


 正しい人というのは、自分のことを正しいと思っている人のことです。つまり自分が罪人であるということがわからない人のことをここでは正しい人、と言ってるんですね。そしてそういう人には、キリストは用がないのです。キリストは罪人を招くために来たのだからです。

聖書が語る罪がわからない理由

 ところでなかなか罪がわからないのは、なぜでしょう?三つほど理由があるように思うんですね。
 第一に、いつも私たちをご覧になっている神を知らないからです。
 私がまだ学生の頃、泊まりがけで聖書の話を聴く会に参加したことがありました。その時のメッセンジャーの方は随分遠い所から駆けつけてくださった方なんです。しかし、その方のお話は、若い私たち学生には、難し過ぎてあんまり心にピンとくるものがなかったんですね。休憩時間の時、一人の先輩が私たちを相手に、そのことを話題にしたのです。「あの人の話って、方言もきついし、声も小さいし、初めて聖書の話を聴く人にとっては、ちょっと眠たくなるなあ。」その時、すぐ近くの自動販売機で缶コーヒーが出てくるガチャンという音がしたんです。それでみんなでその方向を見ると、たった今、噂となっていたそのメッセンジャーが缶コーヒーを買ってたんです。距離からいって、彼に聞こえたのは明らかでした。その瞬間、先輩は顔を真っ赤にして、しどろもどろになりました。まさか本人が聞いてるとは思わなかったからです。彼は悔いて、そして謝りに行ったんですね。
 ところで話をしている最中には、あんまり心責められることなく、ペラペラと批評することができたのに、どうして急に罪責感に目覚めたんでしょう。聞かれている、ということに気づいたからです。実は罪というのは、隠れている時には、あんまり罪と感じないんです。しかし、それが明らかにされることがわかった時、或いは、知られていた、とわかった時に、突如として羞恥心が生じるんです。どうして罪を罪をして感じることがないのでしょうか。それは私たちの行為、口にしたことば、心の中の思いをすべてご覧になっている神がおられる、ということを知らないからではありませんか。

神に対する感覚が麻痺している人

 第二に、異常なものに慣れ親しんだ結果、正常な感覚が麻痺しているからです。  アフリカのある部族は、かわがもを捕獲するのに、でっかいかぼちゃを使うそうです。水鳥のかわがもが群れをなして、泳いでいます。そこへ上流から、でっかいかぼちゃを流すんですね。突然の侵入物にかわがもはパニックになりますが、かぼちゃが川下に流れていくと、やがて静かになります。次の日、またしても、かぼちゃを流します。かわがもたちは大騒ぎになりますが、かぼちゃが川下に流れていくと、収まります。そして次の日もその次の次の日もかぼちゃを流すんです。やがて、かわがもたちは、かぼちゃを見ても騒がなくなるんですね。それを見極めた上で作戦を開始するんです。中身をくり抜いたかぼちゃを被った男たちが、かわがもの群れに近づくんです。油断しているかわがもたちは、あっけなく生け捕りにされてしますのです。どうして彼らは簡単に捕えられてしまったんでしょう。異常なものを繰り返し見ているうちに、異常さに慣れてしまって、警戒することができなくなってしまったからです。
 人間も同じです。実は私たちが毎日のようにニュースとして見聞きしている事件は、なんて異常なものが多い事でしょう。親が子を殺し、子が親を殺し、小学生が売春し、高齢者がストーカーになる。そしてあまりにも異常な事件に触れ続けていると、異常を異常とする感覚が麻痺します。そして異常な事件と比べると、まるで自分が健全で、りっぱで、はるかにましなもののように思えてくるのではないでしょうか。しかしそれは、比較する基準が間違っています。人は死後、一人ひとりが神の前に立つことになっています。基準は異常な事件ではなく、私たちが目の前にするであろう、聖なる神なのです。

自分と真剣に向き合う時

  第三に、自分と真正面から向き合うことがない時、自分の罪になかなか気づくことができなくなります。しかし、自分自身と向き合わざる得なくなる時がきます。それは死を意識する時です。
 朝日新聞の「声」という、読者欄にこんな記事が載ってました。「現金書留の差し出し人の名前に首をかしげながら封を切ってみると、一万円札が五枚、パラパラと落ちた。手紙を読んで驚愕した。女学校時代、あなた様からお借りした大事な本を、我が家に取り込みがあった際に失くしてしまい、長い間お知らせもせず、信頼を裏切る結果となり、お詫び申し上げます。本代としてお受け取りください。」その手紙は、戦時中の疎開先の女学校でいっしょだったクラスメートからのものだったんです。60年以上前のことで、本のことなんか、全く記憶にない。しかし、あの無口でおとなしいクラスメートの胸に長い間秘めていた思いが、文面ににじみ出ているのを見て心打たれたっていうんですね。でもどうして、今頃になってこんなことされたんだろうか。彼女は思い切って、電話で訊いてみたそうです。すると、「人生の後半も終わりに近いからよ。心残りをしたくないのよ。死を間近に思った時、自分の今までの不備を思わずにおれないのよ。」

罪の解決を唯一持っておられる方

 死を意識するということが、自分と向き合う動機となっていたのです。そして自分自身と正直に向き合っていった時、誰もが己の罪に気づかされていくのではないでしょうか。そしてその罪に気づいた時に、罪の問題の解決者を必要とするのではないでしょうか。そしてその罪の解決をもたらしてくださった方がおられる、その方こそは、イエス・キリストなのだ、というのが聖書の主張なのです。
 どうぞあなたも、ありのままの自分で、キリストを受け入れて、罪の赦しと永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。

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