新約聖書
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
(ヨハネ1:12)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.789 2015年5月10日

「人間が造られた目的」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 さて先日、ラジオの長寿番組「全国こども電話相談室」が半世紀の歴史に幕を降ろしました。こどもは大人が想像もしないことを訊いてくるので、百戦錬磨の回答者もしばしば詰まることがあったそうです。たとえば、「反省の色って何色ですか?」「おじさんは何歳からおじさんですか?」「ヘビはどこからしっぽですか?」なかなかとっさに答えられませんね。ちなみにヘビのしっぽは、ヘビの肛門から先の部分なんだそうです。
 ところでこどもの質問の中には、人生の本質をついてくるものがいくつもあったそうです。「人生って何ですか?」「人間はなんのために生まれてきたんですか?」そういう質問が何度も寄せられたというんです。それに対して、サイエンスプロデューサーの杉本優子さんという方は「私もまた、人生って何かなってずっと考え続けています。」と回答なさいました。また科学ジャーナリストの中村浩美さんは「それを探していくのが人生だと思います。」と答えてらっしゃいます。科学のいろんな難問に答えることはできても、人間が何のために生まれてきたのか、それを説明することは難しいんですね。
 しかし聖書はそれに答えています。「人間は神の栄光を現すために造られたのですよ。」それを平たく言うと「人間の創造目的、それは神が人間によって喜びを受け、人間が神によって喜びを受け、こうして神と人とが共に幸いを味わうために造られたのですよ。」と語るのです。

人を奮い立たせるもの

 今、NHKの大河ドラマでは、幕末の志士や明治のリーダーたちを多数輩出した、松下村塾とその塾長吉田松陰、およびその妹が主人公となって放映されています。吉田松陰が松下村塾で塾生たちと過ごしたのは、たった二年半です。しかしこの短い期間に、松陰から感化を受けた人物たちが時代の立役者となって、日本を変えていったんですね。一体何が、吉田松陰を偉大な教師にしたのでしょう。その秘密は彼のお母さんにあったと言われています。
 松陰の生家である杉家は、松陰の祖父の、本好きゆえの散財で極貧生活をしていました。加えて松陰の父が十三歳の時、家が火事で全焼し、それ以来一層、貧苦に喘ぐようになったのです。そんな中、杉家に嫁いできたのが、滝という松陰のお母さんなんですね。彼女が嫁いで最初に言ったのは「今日から毎日風呂に入ります。」ということです。実は江戸時代、何人もの召使いのいる武家屋敷ですら、数日に一回入るっていうのがふつうだったんです。そんな中で、杉家は毎日風呂を沸かします、という宣言をします。彼女はたいへんな重労働であったその作業をすべて自分一人の力でやりました。ところで、なぜそんなことに彼女はこだわったんでしょう。貧しさのあまり、心まで貧しくなってしまってはどうしようもない。温かいお湯に浸かることで、心まであったまって、明日に向かったいく意欲が生まれるはずだ。寒いと気力もなえてしまう。だから身体だけではなく、心に火を点けるために毎日風呂を焚くと決めたのです。このお母さんからたっぷり愛情を受けて育ったのが、吉田松陰でした。

親のすばらしい愛情

 松陰は二十二歳の時、全国の学者から学ぶため、十年間の諸国遊歴の旅に出るのです。この時お母さんは、巨額の旅費を松陰に渡し、彼を非常に驚かせました。貧しい杉家にはあり得ない、大金であったからです。話を聴くと、息子の志のために、コツコツ、コツコツ、貯金をしていたというのです。松陰はこの話を聴いて、涙を堪えることができなかったそうです。黒船乗り込みに失敗した松陰は、野山獄に入れられます。ここに入って、生きて出てきた人はいないという牢屋です。母親は連日、温かい着物、温かい食べ物、本や筆記用具を届けて、彼を支えました。
 そして安政六年五月二十五日、江戸に送られ、同年十月二十七日、彼は三十歳にして、首を落とされて亡くなります。その一週間前に、彼が遺した歌があります。「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

親が子を喜び、子が親を喜ぶ

 ところで、松陰の母親は息子が愛と勇気において優れた人物になり、充実した人生を送る様子をみて、心から彼を誇りに思い、喜んでいました。また松陰も深い愛と配慮をもって育ててくれた自分の両親を誇らしく思い、この親の愛を思い起こす度に、何かに立ち向かっていく勇気が湧いてきたというのです。ここには、親が子を喜び、子が親を喜ぶという理想的なかたちがあります。そしてこのかたちこそは、神が人を造られた理由なのです。すなわち、神が人を喜び、人が神を喜ぶ関係に生きるために、人間は造られたのだ、というのです。

聖書が語る「罪」とは

 ところで、喜びというのは、強制された関係の中では生まれてきません。あくまでも自由が尊重される中で、生まれてくるものですね。ところが最初の人間アダムは、神に与えられたこの自由を間違ったことに使ってしまうのです。神を愛するために使うのではなく、神に反逆するために使ってしまうのです。その結果、神が人を悲しみ、人は神を憎む関係に落ちてしまったのです。この神との理想的関係が壊れていることを、聖書は「罪」と語っています。今や神にとって人間は、親に反逆した家出息子のようであり、人間にとって神は、面倒くさく、鬱陶しく、腹立たしい存在になっています。そして人は、神なしに幸福が実現できると盲信していますが、そんな幸福は長続きしない、陽炎のようなものなのです。しかし、神はそんな人間のために、救い主をおくってくださいました。
 聖書はこう語っています。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

 この方とはイエス・キリストのことです。イエスの名を信じるとは、どういうことでしょう。イエスが断絶関係の神と人との間に、架け橋となるために、神なのに人となって生まれ、人の罪をたった一人で負って人間の身代わりとなって、あの十字架の上で裁きを引き受けてくださったこと、そして死後三日目に復活したこと、そしてそれによって、神と人間の間の遮蔽物を完全に取り除いてくださったことを、信じるのです。そのように、イエス・キリストを自分の救い主として信じる者は、神の子とされる特権が与えられるのです。この立場は、人間の世界に罪が入る以前にも勝って、神があなたを喜び、またあなたがキリストによって神を喜ぶ関係に移されたということを意味するのです。
 どうぞあなたも、キリストによって断絶関係を解消し、神さまの子どもとされてください。心からお勧めしたいと思います。

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