新約聖書
 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.760 2014年10月19日

「的外れという罪からの救い」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
 先日、こんな話を読みました。Aさんの奥さんは、40歳でピアノを習い始めました。お母さんのがんばりに刺激された長女は、ヴァイオリンを習い始めました。それを見た次女はドラムの練習を始め、末っ子の男の子はトランペットを習いだしたのです。それで、ある方が聞いたんですね。「Aさんは何を習ってるんですか?」「我慢」。なぜでしょう。習いたてのヴァイオリンやドラムは、音程やリズムが外れがちなんですね。そして、外れた音程やズレたテンポの音楽ほど、人に苦痛を与えるものはないからです。ギリシャ語では、この「外れること・あるべきところから逸脱すること」を「ハマルティア」と言いますが、聖書はこの言葉を「罪」という概念に当てているのです。罪とは的をはずすことなのだ、と聖書は語るのです。この言葉が使われている聖書の箇所に、次のように書いてあります。

  「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 ここから、3つのポイントでお話しいたしましょう。

聖書が語る人間の罪

 第一に、罪とは、この世界を造られた、まことの神から離れ、神ならぬものを神として生きることなのです。  先日、生け花の先生をなさっている方が、こんなことを教えて下さいました。生け花で一番大切なのは、最初に天を決めることです。天が決まると、上下左右、バランスが定まります。それで、バランスが定まるってどういう意味ですか、とお聞きしますと、見て美しいと感じる姿になるんだ、と言うんですね。それで、見て美しいとはどんなことですか、とお聞きしますと、調和が取れていることだと思います、と仰いました。天が決まると、調和のとれた姿になりますが、天が定まらないと乱雑な生け花になる、とは実に深い真理だと思うのです。今の世の中が混乱している最大の原因は、人が、畏れるべき天、神を見失って、一人ひとりが自分勝手に生きているからではありませんか。
 この間、インターネットで面白い記事を見つけました。コンビニで、店員に無理難題を吹っかけてくるクレーマーのお客さんがいたんです。彼は大声で「お客様は神様だろうが!」と怒鳴り散らしています。それに対して店員は、こう言ったそうです。「おでんの具を間違えたくらいでお怒りになるカミサマがあふれかえっているので、世界はいつまで経っても平和にならないんですねえ。はい、次のカミサマどうぞー」。自分は神のように絶対に正しいと考えると、絶対に正しい自分が不愉快なのは、自分以外の誰かのせいだと思うようになるんですね。しかし、どんな人も、神ではありません。本当の創造主なる神から離れ、自分を神のように考えて生きる生き方を、聖書は罪と語っているのです。そしてこれこそは、全ての人生の混乱の原因なのです。

自らを基準として歩み人間の悲劇

 昔、アメリカ海軍の機関紙プロシーデングスに、フランク・コックという海軍兵士の一文が掲載されたことがありました。ある軍事演習のときのことです。訓練艦隊に属する二隻の軍艦が、悪天候の中を進んでいたのです。彼はブリッジに立っていました。夕暮れで、暗くなり、しかも霧がかかっていて、視界がとても悪いんですね。しばらくすると、見張ってる兵士が叫んだんです。艦首の右舷側の進路に光が見えます!艦長は信号を打たせました。「衝突の危険性がある、そちらの進路を20度変更せよ」すると相手から返信が来ました。「そちらの方が20度進路変更せよ」艦長はいらだって、なお命じました。「こっちは戦艦だ。そちらが20度変更しろ」すると、またしても返信が来たのです。「こっちは灯台だ」戦艦のほうが進路変更したのは、言うまでもありません。灯台は不動の基準点なのですから、動かすことなどできないし、また、そうすべきではないんですね。それでもみずからを正しいとしてそのまま突っ込んでいけば、岬に激突して沈んでしまいます。自らを絶対基準として生きる人間は、岬に激突しにいく船のようなものです。そして、その最後は、死と死後の滅びなのです。

神が人間に与えたプレゼント

第二に、神は、死に至りつつある人間のために、キリストを救い主として送って下さいました。そして、それは一方的な賜物、プレゼントとして私たちに遣わされたのだ、というのです。
 ある少年が、臨時のお小遣いほしさに、食卓に一枚の紙を置いて学校に行ったんです。その紙切れには、次のように書いてありました。「お母さんへ。おつかい代100円。犬のさんぽ代100円。先週肩たたき代100円。合計300円、おしはらいおねがいします」ところが、家に戻ってみると、自分の机の上に別の紙が置いてあったんですね。「かぜをひいたときのかんびょう代。毎日の食じ作り代。毎日の洗たく代。毎日のおそうじ代。合計0円」もし、お母さんの労働をお金に換算したら、莫大な金額になることでしょう。しかし、このお母さんはそれを、タダ、0円としました。それは、お母さんのしていることに価値がないからではありません。お金のためにした行為ではなく、愛の故にしていることであるからです。

神の人間に対する評価

英語で、値段の高いことをexpensiveと言いますね。しかし、飛びぬけて価値あること、それをpricelessと言うんです。priceというのは、価格です。lessというのは否定の接尾語なんですよね。あまりにも価値あることは、値段をつけることができないっていうんです。神様は、神から離れて死につつある人間を救うために、値段のつけようもない、偉大な救いをもたらして下さいました。ご自分の一人子、イエス・キリストを、あの十字架の上で犠牲にして、私たちの罪を完全に赦し、そして、天国に入る永遠のいのちを用意して下さったのです。

神のプレゼントを頂く方法

 第三に、この永遠のいのちは、全ての人に用意されていますが、個人的に受け取らなければ、自分のものにならないのです。
 私は、生まれて初めて小切手をいただいたとき、どうやったらこの約束の紙切れを現金化できるのか、ぜんぜん知らなかったんです。そして、銀行に行って、一から教えていただいたのでした。小切手というのは、いかに大金の金額が記されていたとしても、受取人の名前を入れない限り、現金化できないんですね。さらに小切手には、支払い停止期間という法的な決まりがありまして、原則として、小切手に書かれてある振出日から、10日以内に銀行に提示しなければならないんです。キリストの福音も、これと同じような面があるように思います。額面「永遠のいのち」の、この福音という小切手は、あなたの名前を記入する必要があるんです。そして、あなたの名前を記入するという行為こそは、信仰告白なのです。イエス様を私の救い主にするという告白です。そして、これには有効期限があります。この方を受け入れるチャンスは、生きている間だけなのです。どうぞ、あなたも、今このときに、イエス・キリストをご自分の救い主として信じ、受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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