新約聖書
 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
(マタイ12:20)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.751 2014年8月17日

「心の復興」

おはようございます、尼川匡志です!

カット
 先日東北ボランティアに行ってきました。ボランティアといっても、震災の直後のように家の中に入って泥を掻き出したり、家の修復の手伝いをするのではありません。仮設住宅におられる方々を訪問し、炊き出しをしたり、お話を聞かせてもらったり、そして、小さな集いを持ってビンゴ大会やコンサート、また、聖書のお話などをするのです。随分喜んでいただきました。
 今回の訪問で一人の女性のお話を聞き、私は衝撃を受けました。それは、あの三月十一日の恐ろしい体験でした。新聞や雑誌テレビで多くの体験談を聞いています。ですが目の前で話される一つ一つの言葉は今まで聞いていたどの体験談とも私にとっては違っていました。その方はこう話されました。

想像を超える悲しみ

 十メートルくらいの津波に車ごと流されて水がどんどん入ってきて、ついに胸のところまで来た時には、さすがにもうだめだと思いました。車の助手席におばあちゃんがいたんだけど、声をかけても、もう動かない。いよいよかと死を覚悟したその時です。後部座席の窓が流れてきた瓦礫で割れたんです。おばあちゃんごめんと言いながら、そこから必死で這い出して瓦礫につかまり何とか津波から助かったんです。そして、彼女はこう続けました。涙が流れるようになったのはあの日から二年以上経ってからでした。この一言は、前の話にも増して私の心に突き刺さりました。あまりの悲しさは涙にならない。泣くことのできない悲しさとはいったいどんな悲しさなんだろうか。

心の建物が受けた大きな傷

 震災から三年以上の時が流れています。ある方はもう復興は進んでいるからボランティアは必要ないだろうとそう考えられます。確かに表面的な部分は少しずつ復興に向かっています。しかし、目に見えない被災された方、おひとりおひとりの心の部分は決してそうではないんです。人の心は建物のように簡単に建て直すことはできません。多くの人の心からは、まだ血が流れ続けているんだと思います。  聖書の一か所を見たいと思います。

  「さて、ツァラートに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私をきよくしていただけます。』イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』」

 

絶望的だった病人

 この当時、ツァラートという病にかかると町囲みから出て行かなければなりませんでした。周りの人に感染するからです。おおよそ人間らしい暮らしとかけ離れた生活を強いられます。親兄弟と切り離され、愛する妻や子供とも一緒にいる事ができなくなり、友人も仕事も社会的な地位や立場も、一切を失ってしまうんです。ツァラートにかかるという事は生きながら死んでいるのと同じ状態になるという事なんです。  この男性がある日を境にして彼が持っていた全ての物を失ったことは分かります。彼は絶望します。未来に希望の光が見えませんでした。この人の心についた深い傷を誰も見ようとしませんでした。心の傷をいやせる人はいなかったんですね。所詮人間とは他人に無関心なものです。マザーテレサはこの世界にある飢えと貧困を見て「愛することの反対は憎むことではなく無関心です。」と言いました。私たちは他人の事についてあまりにも無関心になっているように思います。この社会で孤立しています。それは自己中心の結果であり、罪の結果です。今から二千年前も今とそんなに状況は変わらず、他人の悲しみには無関心だったようです。

救い主のうわさを聞いて立ち上がる

 ある時この男性はイエスの噂を聞きました。メシヤかもしれない。そして、もしこのイエスがメシヤであるなら自分の病を治してもらえる。彼は勇気を振り絞って人目を憚りながら町囲みの中に入っていきました。もし、人に見つかったら叫ばれ石を投げられます。彼はイエス一行が通られるであろう道にひれ伏し待っていました。全身を布で覆った人が道の向こうにひれ伏している。誰もがすぐにツァラートだとわかりました。群衆は足を止め叫びだします。「お前は穢れている。出て行け。」 さて、イエスはその罵声の中をゆっくりとこの人に近づいて行かれたのです。皆はイエスが何をしようとされているのかが分かりませんでした。イエスはそのひれ伏す人の前に身を屈められました。次の瞬間です。群衆は息を飲みました。なんとその人に手を伸ばし、触れられたのです。当時絶対してはならない事でした。この人に触れる事は自分の身も汚すことだからです。しかし、一番驚き、身を引いたのはツァラートの人自身です。沈黙の時が流れ、身を堅くしたままのこの人から手を離すことなくイエスはこう続けられました。「私の心だ。きよくなれ。」ツァラートが消えました。癒されたのです。

私たちの心の痛みを見られる救い主

   さて、イエスはなぜこの人に触れられたのか。言葉だけで癒せたんです。手を触れる必要はなかった。しかし、イエスは触れたかったんです。もう何年も人から嫌われ疎まれ触れられることもなかったこの人に、いや、この人の傷ついた心に触れたかったんです。イエスはこの人の表面的なものではなく心の傷を見ておられました。彼は何年も誰からも触れられることはなかった。なんと悲しい人生でしょうか。人の温もりの分からない人生でした。しかし、今イエスの手から温もりが伝わってきます。涙が流れたと思います。その温もりは彼の乾ききった心にゆっくりと染み入りました。

イエスは心から同情できる方

 私たちの心は傷つきます。悲しいことがたくさん起こります。そして、人の無関心や心無い態度や言葉がさらにその傷をえぐります。この世界に生きる限りそれらのことと無縁には生きる事はできません。私の心の悲しさや痛み、心の傷をいやす方がおられないなら私たちの人生は闇ではないでしょうか。イエスは抱える大きな問題を解決する前にまずその人の心の傷に触れられました。問題が解決することが必要です。しかし、それ以上に心の傷がいやされることがもっと重要ではないでしょうか。そしてそれにはその悲しみを見、そっと寄り添い痛みに共感し受け止めてもらうことが必要なんです。イエスにはそれができます。イエスは痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すことのない方です。今日このイエスの前に出てください。あなたの心の傷をそのまま打ち明けてください。心からお勧めしたいと思います。

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