「恵みに基づく神の呼びかけ」
彼は自分の発見を他の研究者に知らせて、成果を共有しました。その中に、マーチン・チャルフィーという人がいました。プラッシャーはその後も蛍光タンパク質の研究を続けるつもりでしたが、奨学金を打ち切られてしまったために、研究職から離れざるを得なくなってしまうのです。
さてそれから20年経ちました。2008年10月、チャルフィーと下村脩、ロジャー・チェンの三人はノーベル賞を受賞したのです。しかし、そこにプラッシャーの名前はありませんでした。その時彼は、自動車販売店で運転手をしていたのです。職場でノーベル賞のことを聞いたプラッシャーはこう言ったそうです。
「自分は研究を続けられなくなったんだから、チャルフィーに複製した蛍光タンパク質の遺伝子を渡しておいて、本当によかったよ。そうでないと、あの研究も日の目を見ることはなかったんだから。」三人のノーベル賞科学者がみなさん謙遜なコメントを出されましたが、それは根底に、プラッシャーへの敬意があったからだと思います。
誰かの功績の上に、今の自分があるということを知る人はみな、謙遜になるものです。そしてその人対する感謝を捧げたくなるんですね。
ローマ人への手紙3章23、24節
私はクリスチャンとして神に感謝を捧げたくなります。なぜなら神さまは私たちのために途方もなくすばらしい功績をただで譲ってくださったからです。聖書の中にこう書いてあります。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
今日も三つのポイントでお話いたしましょう。母の疎開の経験
第一に、私たち人間は一人残らず、例外なしに、神を忘れた罪人であり、この罪のせいで神からの祝福を受け損なっている、と語っているのです。
ところで聖書が人間の罪を糾弾するのには、理由があります。それは責めるためではなく、生かすためなのです。
実は私の母は、小学六年で終戦を迎えました。母が小学生の時、アメリカの軍隊の空襲を逃れるために、島根県の山奥に集団疎開したそうです。集団疎開というのは、学校単位で子供たちが親から離れて、山奥のお寺や旅館で集団生活して暮らすんです。毎朝5時に起きて、毎晩8時半に寝る。まるで少年軍隊みたいな生活だったそうです。
そこではつらいことがいくつもあったようです。第一にさみしさ、ですね。みんな昼間は平気な顔をしていますが、夜になると、誰かが泣き出します。するとさみしさが伝染したかのように、堰を切ってあっちでもこっちでも、すすり泣きの声が聞こえてくるのです。さらに、シラミのかゆさには耐えがたいものがあったそうです。掻けば掻くほど、もっと痒くなるからです。さらにそこは、弱肉強食の世界でした。集団生活ではケンカの強い子がすべてを仕切ってしますのです。冬の寒い日の火鉢の近くに座るのも、わずかな残り物をお代わりできるのも、ボスが独り占めするんです。
しかし、何よりつらかったのは、飢え、だったそうです。さみしくても、痒くても、いじめられても、腹が減ることを紛らわすことはできません。ある友達は飢えをしのぐために、歯磨き粉を全部食べてしまったそうです。
罰するために罪をの告白を迫るのではない
ところで山奥の寺では、一つ誘惑がありました。近くに梅の畑があったんです。青い梅の実が生る頃、あたり一面に何とも言えないいい香りが立ち込めています。
それでボスが子分に命じるのです。梅の実を集めて自分たちで食べてしまおうではないか。人の畑に入って、作物を盗むことは明らかな罪です。しかし、飢えに耐えかねた一部の子供たちはとうとう梅の実をもいで、いくつもいくつも食べてしまったのです。
その事件はすぐに発覚しました。農家の方が先生に通報したからです。それで犯人を割り出すための集まりが持たれたのです。「食べた人は正直に名乗り出なさい。」しかし、誰一人手を挙げません。なぜなら、白状したらこっぴどい目にあわされることを恐れたからです。
しかし、盗った子供たちを探していたのには、理由があったのです。実は青い梅には毒性があるのです。身体の中に入ると、酵素と反応して、青酸毒に変わってしまうのです。特に実よりも種の中に、20倍もの問題物質があるため、へたをすると命にかかわることもあり得るのでした。先生方が盗った子供たちを探したのは、罰するためではなく、薬を渡して病気から救うためだったのです。
聖書が人に罪の告白を迫るのも、同じ理由です。罪を認めて救いを得させるために、罪の糾弾をするのです。知らぬふりをしている限り、特効薬である救いを、渡すことができないからなのです。
恵みにより赦してくださる
第二に、神さまは恵みによって私たちを救ってくださるのです。
昔、ナポレオン戦争の時、一人の若い兵士が見張り中に眠ってしまい、処刑が決まりました。その時、彼のお母さんがナポレオンに直訴に来たのです。
「ナポレオン様、私は未亡人です。そしてあの子は一人息子です。あの子がいないと私も生きていくことができません。あの子が悪いとは十分わかります。ですから、お恵みください。どうぞ今回だけは、お恵みによって赦してください。」
しかしナポレオンは言いました。「例外は作れない。彼は死に値する。彼のした不手際には同情の余地はない。彼は赦されるに値しないダメ兵士だ。」
しかし母親はなおも食い下がったのです。「ナポレオン様、あなたのおっしゃる通りです。ですから、お恵みを願っているのです。もし彼が赦されるにふさわしい価値があるから赦されるというなら、それはもはや恵みによる赦しとはいいません。赦されるに値しないにも関わらず、赦しをいただくことこそ、恵みというのではないでしょうか。」
このひと言がナポレオンの心を動かしたといわれています。
神さまは、恵みをいう原理で私たちを取り扱ってくださるのです。赦しに値しない者を赦す愛、それが神さまの愛です。したがって、恵みの神さまの前に絶望すべき人間は一人もいないのです。あなたにも、恵みはあるのです。
自己犠牲による恵み、赦し
第三に、それはどんな恵みであるのか、ということです。
かわいそうだから大目に見るという、恵みではありません。神の恵みはキリスト・イエスの贖いという、神の自己犠牲による赦しなのです。
それはあなたの罪を見て見ぬふりをするという赦しではありません。あなたの罪をキリストがかぶって、十字架につき、あなたの代わりに罪の刑罰を何もかも引き受け、ご自分のいのちで償いを果たすという、赦しなのです。
キリストはあなたのためにこの世に生まれ、十字架でいのちを捨て、3日後に復活し、天に帰り、もうまもなく来られる方です。
どうぞあなたも、一刻も早く、イエス・キリストは救い主をして信じてください。心からお勧めしたいと思います。