「イエスが備えた天国への招き」
チケットに記載されている金額の大きさに恐縮しながら、折角の機会なので、上質の音楽を堪能してきました。生のオーケストラを聴く度に感じるのは、二つのスピ―カーからしか聞こえてこない音とは比較できない奥行きの深さと力、そして繊細さです。
有名な音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハの手書きの原稿にはよく"SDG"と書かれていました。ラテン語で「ソリ・デオ・グローリア」の略で、「神に栄光あれ」という意味です。バッハにとって音楽は創造主の素晴らしさを表す一つの手段であって、神の国では神の賛美が溢れていることをいつも思い描いていたのです。バッハは神が備えた天国に憧れていました。私たちも今、そこに招かれています。
今日は、神が私たちのために用意しておられる「神の国」「天国」ついて考えていきましょう。
ヨハネによる福音書14章1-2節
次のようなイエス・キリストのことばがあります。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
ここから三つのポイントで考えていきます。想像を超える場所、天国
まず、天国とは「天にある住まい」です。
家は私たちが一番、心安らぐところです。どれほどみすぼらしくても、普段生活している場所ほどリラックスできる所はないでしょう。神の国とは、魂に安らぎと平安を与えるところです。ただ、聖書が語る神の国は、見たことがあるような懐かしさに加えて、想像を遥かに超えるすばらしいところです。日本語の表現に「絵にも描けない美しさ」というのがありますが、聖書は遥か昔に次のように表現しています。
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。
先日、サミットが行われて三重県伊勢志摩に先進国の首脳が集まりました。是非日本の絶景を堪能してほしいと思いもありその場所で開かれました。一度も行ったことのない人はテレビに写る素晴らしい景色をこの目でみたいと思われたでしょう。今、伊勢志摩の観光業界は盛んに宣伝しています。私は以前、仕事の関係であの辺りに何度も行ったことがあります。確かに素晴らしい所ですが、ある程度の予測を立てることができるのです。一度見たことがある人は、心に思い浮かべることができるのです。しかし、神が備えられた天国は「心に思い浮かんだことのないもの」と言っています。本当に楽しみです。
天国はイエスによって備えられた
次に、天国とは「イエスが備えられた場所」です。
残念ながら私たち人間が天国にいくためにできることはありません。いやそれ以上に、私たちは本来、神の国にふさわしいものではないのです。さらに言うならば私たちは本来、自らが犯している罪のゆえに、天国に行けないばかりか、かえって神から退けられ、裁かれるようなものなのです。しかし、私たちを心から愛される神は救い主イエスを通して、私たちに天国への道を備えてくださいました。それは十字架によって、私たちの代わりにイエスが裁かれて、本来私たちが受けるべき罪の刑罰をイエスのゆえに免れる道が備えられたということです。
イエスは私たちの罪の刑罰を代わりに受けられた
現代は麻酔技術が発達し、患者にとって負担が軽くなりました。その麻酔学の基礎を作ったのが19世紀に生きたスコットランドのジェームズ・シンプソンという医者です。医学界では、婦人科学の分野でパイオニアの一人と称されています。
エジンバラ大学の産科学部の教授でしたが、彼は麻酔薬としてクロロホルムの発見しました。1847年にそれを発見して以来、彼は現代麻酔学の発展させていきました。興味深いことに、その発見を動機付けとなったのは、旧約聖書に書かれている一つの記事だったと言います
。創世記には、神が最初の人間アダムからエバを作られるときに、アダムに「深い眠り」が与えられたと記されています。似たようなことが薬によってできないか彼は考えたのですね。
イエスが十字架にかけられたとき、ユダヤ人が「酸味の強い葡萄酒をイエスに与えようとした」と記されています。それは犯罪人に対する最後の哀れみと言われ、痛みを少しでも軽減させるための麻酔薬のようなものだったのです。
しかし、イエスはそれを飲もうとはされませんでした。どんな屈強な男でも、痛みのあまりむさぼるように飲む葡萄酒をイエスは拒まれたのです。それはあたかも、人類の罪の刑罰を、しっかりと、一つ残らず受け止めようとする決意のしるしのようにも思えます。
このように、私たちの罪が赦される道をイエスは十字架によって開かれました。そして、死後三日目に復活して、この事実を奇跡をもって裏付けてくださったのです。
神に義とみなされる
最後に、天国とは「イエスを信じることによって行けるところ」です。
これを言い換えれば、「自分の力を信じて、頑張っても、天国に行くことはできない。自分の力に頼っても心に平安を持つことはできない」とうことです。私たちは自分を見る限り、いつも「不安と焦り」に襲われます。私たちのために救いを用意してくださったイエスを見るときのみ「心の平安」を頂くことができるのです。旧約時代のアブラハムについて次のように書かれています。
それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。
アブラハムは神を信頼したので、彼は罪を赦され、神の前に正しいとされた、という意味です。りっぱな行いをしたので、義とされた、と言っていないのです。イエスを受け入れれば神の国に迎えられる
ある英訳の聖書では「義とみなされた」と部分はクレジットということばが使われています。みなさんはクレジットカードを使っていますか?カード一枚で現金をもっていなくても、買い物ができる、とても便利ですね。そのときお金を払っていなくても、払ったとみなされる。必ず払うと信用されているから買うことができるのです。カードを作るときにその人が信用できるか、金額を支払う能力があって、払う意思があるかどうか審査されるのです。
信用されたからカードを作り、使うことができます。人間のことですから信用させておいて騙すこともあるでしょう。しかし、神は嘘、偽りのない方です。
神は「十字架と復活を信じるものを義と認め、天国に迎え入れる」と約束してくださいました。私たちは自分は真実でなくても、神は約束に対して真実な方だと信頼するとき、神は私たちを正しいと認めてくださるのです。
私たちが自分で罪を清めたのではありません。イエスがしてくださいました。私たちが自分で罪の刑罰を受けて、罪という借金の清算をしたのではありません。イエスが代わりに罪の刑罰を受けてくださり、罪という借金の清算をしてくださったのです。十字架の上でのイエスの最後のことば「完了した」を信頼して、イエスを救い主として受け入れる時、人はだれでも「神の国」に行くことができるのです。
高額な音楽コンサートでも晩餐会でもなく、神の用意された天の御国へ招かれています。ぜひ、みなさんもこの救いを自分のものにしてください。心からおすすめいたします。