新約聖書
「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」
(ローマ10:1)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.796 2015年6月28日

「揺るぎない防波堤イエス・キリスト」

おはようございます、那須清志です!

カット
 先日、北海道の函館に行った際、足を延ばして小樽まで行ってきました。目的は、小樽港沖合に横たわる防波堤を見るためです。明治政府は、世界との貿易を進めるために本格的な港の建設に乗り出しました。地形的に元から良い港である以外は、沖合に防波堤を造って整備していかなければなりません。小樽港沖の防波堤は、設計から施工に至るまで日本人だけで行った初めての本格的な防波堤だったのです。それを指導したのが、土木工学の分野ではとても有名な廣井勇という人です。
 彼は「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士がいた札幌農学校の2期生でした。同級生に以前の5千円札に載っていた新渡戸稲造や内村鑑三などがいました。そして彼らは皆、聖書に触れ、イエスを救い主として受け入れクリスチャンになったのです。明治を代表するクリスチャンである内村は当時、廣井が聖書メッセージを語るのに一番ふさわしいと思っていたほどです。しかし、廣井は土木工学の道へ進んで行きました。日本の国を豊かにするためにインフラの整備をすることが大切だと感じ、それが神が自分に与えた使命と捉え、一生を土木工学に捧げたのです。自費でアメリカに留学し、叩き上げで工学を学び、英語で記した橋作りのための本は、しばらくその分野の教科書にもなっていたそうです。
 小樽港の一角に小樽港湾事務所があり、その中に資料館があります。職員の方が先輩たちの偉業について丁寧に説明してくださいました。コンクリートの固まりしか見えない防波堤建設にも多くの工夫や努力があり、この防波堤あってこそ小樽港の繁栄があることを教えられました。

ローマ人への手紙10章1節

 さて、私たちの日常生活でも、人々の努力や配慮のゆえに今、恩恵を受けているということはよくありますね。その最たるものが、私たちを造られた創造主による配慮だと思うのです。今日も、神の配慮の具体的現れである福音について考えていきましょう。
 次のような聖書のことばがあります。

「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」
(ローマ10:1)

 これはパウロというクリスチャンが、自分の同朋であるユダヤ人の救いを求めて、神に祈っていることを語っています。

聖書が語る救いとは

 まず、「聖書が語る救い」について考えましょう。
 人間には様々な問題があり、さまざまな対策を講じますが、根本原因まで行きつきません。実は、すべての問題の原因は、私たちを造られた創造主なる神との関係が深く関わっているのです。
 以前に歯の具合が悪くて歯医者さんに行って診てもらいました。ところが思っていた歯よりも、違う歯の方が早く治療しないといけないというんです。その歯は神経を抜いていたので虫歯が進んでいても痛いと感じなかったのですね。自覚症状がなくても、医師にはそちらの方が深刻だと診断されたのです。
 同じように人間が抱えた問題の解決は、まず神との関係を回復することから始めないといけないというのです。神はそれを優先して取り扱うように勧めています。どれだけ社会改良しても、どれだけお金持ちになっても、どれだけ健康になっても、一時的な問題解決になっても、いつまでも続く真の平安を得ることはできません。「神に対する不健全な状態」を聖書は「罪」と表現していますが、その罪の問題を解決しなければならないのです。ずばり、聖書が語る救いは「罪からの救い」です。

罪からの救いは神が与える

 パウロは人間の救いを神に求めました。次に考えるのは「罪からの救いは神のみが与えることができる」ということです。
 罪の問題の解決は神の方で計画され、実行に移されました。その方法は不思議なものです。人間が受けなければならなかった罪の刑罰を、キリストが十字架の上で身代わりに受けてくださったというのです。
 冒頭に語った廣井勇は、冬の荒れ狂う波の強さを数字に表すために、自分で公式を編み出しました。また、試しに試したコンクリートブロックを、斜めに積んでいくと言う画期的な方法を採用しました。しかし、入念な計画・準備だけではどうすることもできないこともあります。工事中に大嵐になったとき彼は祈るしかなかったと語ります。嵐が静まり神に感謝し、翌朝大きな波があと一回でも押し寄せたならばクレーン諸共堤防も崩れていたことを目の当たりにした時、さらに大きな感謝をささげたのです。実は、夜現場を見守っていたときに彼は懐にピストルを胸に入れていたとも言われています。工事が頓挫したならば、自分の計画が甘かったことを詫びて命を捨てようとまで考えていたのです。 仕事に対する誇りと意気込みを感じますね。

キリストは身代わりになられた

 一方、私たちの罪の問題を解決するためには、神は画期的な方法を取られました。旧約聖書で何度も出てきた身代わりの犠牲の捧げ物。それはいつも動物でした。しかし、完全で、永遠の犠牲となるためにイエス・キリストは自分の体をもって十字架の上で捧げられたのです。
 イエスはそのわざを行うことを引き受けてくださいました。それは仕事だったからではありません。私たちに対する愛のゆえです。罪を犯したものは、身代わりになる資格はありません。全く罪のないイエスだけが身代わりになることができました。その資格を自らの意思で使ってくださいました。すべての人間に「罪の赦し」を与えるために十字架に向かい、神から復活させられたことにより「永遠のいのち」を与える資格のあることをこの世に示してくださったのです。

与えられたものを神様のことを覚えるために使う

 最後のポイントは、「救いは個人の意志や選択にかかっている」ということです。パウロは救いのために祈っていました。私もあなたの救いのために祈っています。しかし、私が代わりに信じてあげることはできません。この神が与えたいと願っている救いについて、あなたがどんな反応をするか決めなければなりません。これを考えることこそ、人間にとって最重要課題だと聖書は告げます。再び、廣井勇のことばを借りれば、彼は次のようなことを述べています。
「もし、工学がただ人生を忙しくするものだけなら何の意味もない。これによって数日かかっていたことを数時間で済ますことができ、1日の仕事を1時間に短縮でき、あまった時間で静かに人生について考え、反省し、神のことを考える余裕を作るのでなければ、私たちの工学には何の意味も見いだせないのだ。」と。
 便利な時代になって時間が与えられても、お金に余裕ができても、健康が守られていても、その与えられたものを神さまのことを覚えるために使わなければ、とても残念です。

救いは個人にかかっている

 自分の罪を認め、神が用意された救いを知り、それに応答するように神は待っておられます。救いが個人の意志や選択にかかっているということは、どんな状況でも救われるということです。一人ぼっちの時でも、病の床にあっても、すべてを失っていても、祈ることはできます。何もできなくても、自分の意志がある限り神に応答することはできるのです。
 是非、あなたもイエスを個人的な救い主として受け入れ、イエスを人生の防波堤として歩み始めてください。嵐を経験しない人生ではありませんが、嵐の中でも平安を頂く人生に入ることができます。心からお勧めいたします。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム