新約聖書
 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
(マルコ5:36)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.770 2014年12月28日

「曲がり角の向こうにある希望」

おはようございます、尼川匡志です!

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 今から十年ちょっと前に出版されたある有名な小説の一節にこんなことばがあります。
「この国にはなんでもある。だが、希望だけがない。」というものです。いや、そんなことはないだろう。それとも、ああ、その通りだな、と思われますか。子ども・若者白書によると、日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンの13歳から29歳の男女、1000人を対象に行われた「あなたは将来に明るい希望を持っていますか?」というアンケートで、「はい。あります。」と答えたのはアメリカがトップで、91.1%でした。日本はなんと最下位、わずか6割ですよ。このアンケートの結果、日本はこの7つの国の中で希望を持っている若者が一番少ないことがはっきりしたんです。なぜ私たちの国では、希望がないという若者たちがこんなに増えてしまったんでしょうか。いや、これは若者たちだけの話でしょうか。壮年の世代はどうでしょう。中高年はどうでしょうか。もし同じアンケートをしたら、6割を切るんではないでしょうか。実は、若者たちだけが希望を失っているのではなく、この国全体が希望を失っているのです。その証拠が、毎年3万人前後の自殺者であり、600万人を超す独居老人そして、孤独死なんです。

希望とは未来のこと

 さて希望とは何でしょうか。 辞書で調べてみると「未来の明るい見通し」「将来に待ち望む事」つまり希望とは、現在のことではなく、未来のことだということがわかります。未来にある光と言ってもいいかもしれません。

曲がり角の向こうにあるもの

 今年のNHKの朝の連続のドラマ「花子とアン」は過去10年の中で、最高の平均視聴率を示したそうです。私も毎朝楽しみに観ていました。ご存知のように、このドラマはカナダのモンゴメリが書いた「赤毛のアン」を日本に初めて紹介した村岡花子さんの生涯を描いたものです。この「赤毛のアン」に出てくる心に残る有名なことばの一つとして挙げられるものが次のことばです。「クィーン学院を卒業した時は、未来がまっすぐな一本の道のように、目の前にどこまでものびて行ったようだったわ。どんなことが起こるのか、先の方まで見通せると思ったくらいだった。でも、今その道には曲がり角があるの。曲がり角の向こうに何があるのか、今はわからないけど、きっとすばらしいものが待っていると信じることにしたわ。」これは主人公アンのことばです。この「曲がり角の向こうに何があるかわからないけど、きっとすばらしいものが待っていると信じる。」これが、希望があると答えられる人の特徴です。未来はすばらしいんだと、信じられるのかどうか、信じることができる人が希望を持てる人なんですね。あなたは、未来の曲がり角の向こうにすばらしいものが待っているとお考えでしょうか。それとも、得体のしれない、何か恐ろしい、あなたを不安と恐怖に陥れるようなものが待っているとお思いでしょうか。たしかに、人生にはいくつもの曲がり角があります。そして誰もが最後の曲がり角を曲がった時、待っているのは、死なんですね。

娘の病の癒しを願う父親

 聖書に、会堂管理者ヤイロという人が出てきます。この会堂管理者とはユダヤの教会シナゴーグの管理を任されている人のことです。このヤイロには12歳になる娘がいました。そして彼女はこの時、重い病気にかかっていたんです。当時の医療技術では手のうちようがなく、死を待つばかりの状態でした。その時、ヤイロは一人の人物を思い出します。それが、イエス・キリストです。「あの方なら、娘の病気を直すことができる。」そう思ったんです。ちょうどその時、イエスがヤイロの住むカペナウムの町に戻って来られました。ヤイロはイエスのもとに行き、ひれ伏して、「娘を治してください。」と懇願します。イエスは快諾し、ヤイロの家に向かって歩き出されました。この時、ヤイロの心の中には、一瞬希望の光が射したんです。もう少しで娘は助かる。しかし、人生とは次の瞬間何が起こるか、予想不可能なものなんですね。

人の心の痛みを知るイエス

 ある方はこう言いました。「人生には上り坂、下り坂。そして、まさか、がある。」と。希望が見えたヤイロに、このまさか、が起こったんです。12年間重い婦人病で苦しんでいる一人の女性がいました。彼女は、全財産をこの病気の治療に使い果たしてしまったんですね。もうどうすることもできません。この時、ヤイロと同じように「あの方なら、私のこの病気を直せるのでは?」と考えたんです。そしてイエスに近づきました。それはもう目と鼻の先にヤイロの家が迫っていたその時でした。イエスは立ち止まって、この女の病を直し、今までの悲しみと苦しみのすべてを聴かれました。そして慰めのことばをかけられたんです。その間、何十分かかったのかわかりません。しかし、イエスの横でヤイロが本当にいらいらしながら、このやり取りをきいていたことは間違いありません。「もういいだろう。後にしてほしい。娘は死にかけているんだ。」私は親としてこの時のヤイロの心情がよくわかります。私なら間違いなく、この女性をにらみつけ、心の中で「帰れ。」と叫んでいたに違いない。子どもの死を目前にし、不安と焦る気持ちの中では、当然の反応ではないでしょうか。その時です。ヤイロの家の者が来て、こう言います。「お嬢さんさんはなくなられました。」ヤイロは茫然とするんです。希望の光が闇にのみこまれました。この時イエスはヤイロにこう言われました。

 「恐れないで、ただ信じ続けなさい。」 と。

 何を信じるんでしょうか。何をこの時信じればよかったのでしょうか。

イエスに対する信仰が生み出す希望

 曲がり角の向こうに、きっとすばらしいものが待ってると信じる。アンはそう言いました。彼女は、何を信じるのでしょうか。偶然のラッキーを信じるのでしょうか。私の人生は必ずうまくいくんだと、なんの根拠もないことを信じるのでしょうか。アンがすばらしいものが待っていると信じたのは、実はすばらしいものを与えることができる神を信じていたのです。イエスはヤイロに、恐れないで、何を信じよと言われたのかというと、わたしを信じ続けなさいと言われたのです。この後、ヤイロはそのことば通り、イエスを信じ、彼の娘はこのイエスによって生き返りました。信じ続けた結果、希望を手にしたのです。私たちが人生に希望を持てないのは、信じ続けることができる存在を知らないからではないでしょうか。私たちの人生を、幸いで満たせる方を知らないんです。死の向こうに天国を備え、死をも希望にかえる方を知らないから、その方を信じないから、私たちは希望を持つことができないんですね。希望とは、未来を信じることです。いや、未来をすばらしいもので満たすことができる神を、信じることなんです。神を信じ、イエスを信じてください。心からお勧めいたします。

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