新約聖書
 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
(1ヨハネ4:16)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.762 2014年11月2日

「私に対する神の愛」

おはようございます、三綿直人です!

カット
 先日ある缶コーヒーのCMを見てましたら、「世界は誰かの仕事でできている。」とありました。そのCM見ながら、なるほどな、と思ったんです。たしかに世界は、誰かの仕事でできています。私たちが着ている服、最近発売されたスマートフォン、私たちが日常生活で使う生活家電、それらの物は人間の知恵と技術の結晶でできて、私たちの生活を助けています。感謝したいですね。でも同時に、その仕事をしている人は誰の仕事でできたんでしょう?聖書は私たち人間を造った神について、私たちに教えています。人間が仕事をして造った神、ではなく、人間を、造る仕事をした神。この神が私たちのいのちの造り主だ、この神の仕事の故に私たちの仕事がある、聖書はこんなふうに教えているんです。この神、という方について聞いてきませんでした。そして、スケールが大きすぎて、なかなかわからないんです。

宇宙の想像を超える巨大さ

 物の本によりますと、太陽の中をくり抜いたら、地球が130万個入るっていうんですね。おっきいですね。でも太陽もアンタレスという恒星に比べたら、小さいそうです。この太陽が6400万個入るっていうんです。おっきいですね。でもアンタレスも、ヘルクレスという星に比べたら、小さいそうです。アンタレスが一億個入るのが、ヘルクレスだというんです。でもヘルクレスもまだ小さい、イプシロンという星は、ヘルクレスが300万個入るっていうんです。もうここまできたら私たちの頭ではわかりません。メチャメチャでかいということはわかるんですけど、そのスケールをはかり知ることできないんです。
でも聖書にはこの宇宙とその中にあるすべての星々を造った神、この神は指のわざで造ったと、宣言するんです。指のわざっていうのは、細かい作業という意味です。人間が考え出した宗教の神々と全然違う神、これが聖書の語る、神なんです。でも聖書が私たちに一番伝えたいのは、この神がおられる、ということだけではありません。聖書が伝えたいメッセージを今日、聖書の中から読んでみましょう。ヨハネ第一の手紙4章の16節というところです。

  「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」

 聖書は私たちに、このスケールの大きい、偉大な神がおられるということだけでなく、その神が私たち人間を心から愛してる、と教えるんです。

ふしぎがいっぱいな世界

 金子みすゞという童謡詩人がいました。この人は26歳の若さで亡くなるんですけど、その感性が最も美しい童謡詩人の一人と言われてるんです。こんな詩が残っています。

 わたしはふしぎでたまらない、
 黒い雲からふる雨が、
 銀にひかっていることが。

 わたしはふしぎでたまらない、
 青いくわの葉たべている、
 かいこが白くなることが。

 わたしはふしぎでたまらない、
 だれもいじらぬ夕顔が、
 ひとりでぱらりと開くのが。

 わたしはふしぎでたまらない、
 だれにきいてもわらってて、
 あたりまえだ、ということが。
 
 この人の詩を読んで、ほんとにそうだな、私たちのまわりにあるいのちの美しさはふしぎでたまらないなあ、とあらためて思いました。でもこの詩人が一番驚いたのは、どうしてこうなるんだろうか?誰の仕事でこうなっているんだろうか?って訊いたとき、みんな笑って、それはあたりまえだ、というのが一番ふしぎだと、いうんです。

神の愛のあらわれ

 みなさん、まわりの自然界を見て、宇宙を見て、この美しい花々を見て、ふしぎだとお思いになりませんか?これら私たちに対して、美しさと慰めを与える自然界は、神が私たちを愛していることの一つの証拠です。私たちが生きやすいように、私たちがこのいのちを輝かせることができるように、神が整えてくださった地球。この美しい地球を私たちは神さまの愛の証明として見ることができると思います。それでも鈍い私たちに、神はご自分の最も大切なひとり子、イエス・キリストを遣わしてくださいました。私たちはこの神なんていらない、私の人生は私のためにあると、生きている人間です。私が正しい、私が中心だ、そのようにして私たちは、いのちを失ってるんですね。正しさと正しさがぶつかる時、争いが起こり、私たちの心のいのちは、輝きを失っていきます。聖書は神が造ってくださったこの私、人は、罪人だと教えています。私たち日本人は、罪人だと聞いて、心に苦い思いが出るんじゃないでしょうか。でもちょっと待っていただきたいんです。聖書が語る罪は、正しくないということよりも、本質的には、いのちを失っている、という意味です。

いのちを救うワクチン

 今、エボラ出血熱が猛威を振るっています。世界保健機構、国境なき医師団、いろんな医療従事者がこのエボラ出血熱の解決のために奮闘しておられます。すばらしいことだと思います。でもこのように考えてみたらいかがでしょうか。私たち人類全員がエボラ出血熱にかかっている。エボラ出血熱を解決するワクチンは開発されていません。みなが死の恐怖に悩んでいる時、このワクチンなら大丈夫です、というワクチンが開発されて、私たちのところに届けられたら、それはグッドニュースではないでしょうか?そのワクチンが届いた時、私たちは言うでしょうか?「いや、私がエボラ出血熱だなんて。あの人もエボラ出血熱じゃないか。」はい、その通りです。でも私たちは罪人と聞いたら、私が罪人なんだったら、もっと悪い人はたくさんいる。

魂を救うワクチンを用意された神

 たしかに正しさの比較で言えば、私たちの道徳基準はばらばらで、ある人はほんとにりっぱだし、ある人は犯罪に手を染めることもあるでしょう。でも聖書が私たちに罪を教える時、その本質は、いのちを失っている、ということです。どんなに正しい人でも、また正しくない人でも、私たちは罪の支配下の中に置かれていて、死に瀕しているんです。その私たちを愛して、世界の造り主は、イエス・キリストという最高のワクチンを届けてくださいました。このイエス・キリストを信じる者は、だれでも救われる。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。」とヨハネという人物は書きましたが、その神の愛がわかったのは、世界の美しさだけではない、私のいのちの問題を解決するために、この神は最も大切なひとり子を私たちに与えてくださったということを指して、私に対する神の愛と宣言したんです。みなさんもぜひ、この神の愛を信じていただきたいのです。

神の祝福に与るには

 先日、聖書研究会に講師として招かれました。150名を超える方々が集まってたんですけど、主催者の方が最初に「みなさん、今日のお昼のお弁当代500円です。後ろに箱が用意してありますので、入れてください。ただし、講師の三綿さんだけは、ギフトで無料です。」ところがお昼時になって、お昼は届きませんでした。主催者の方々は下にお弁当を用意していたんです。私は、講師控室におったんです。結局、食べることできませんでした。用意されていても、私がその所に行って食べなければ、その特典に与ることはできません。
 神は、私たちにイエス・キリストというワクチンをすでに用意してくださいました。だれでも願うなら受けることができます。でも私たちがそこに行って、そのワクチンをください、と信じなければならないんです。そんなものは要らないとおっしゃるなら、無理やり弁当食べさせることできないように、無理やりイエス・キリストを信じさせるということは、できないのです。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
 ぜひ、この神の愛を知り、イエス・キリストを信じてくださる方になるように、心からお勧めいたします。

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