旧新約聖書
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
(詩篇130:3-5)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.754 2014年9月7日

「ぶれない生き方の秘訣」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 ところで、山道の真ん中で突然、大きなマムシに出くわしたらあなたはどんな気持ちになるでしょう。たいていの人は恐怖に凍てつき、なんて、ついてないんだと思う事でしょう。しかし、マムシ酒のメーカーの社長が見たら、これはなんてラッキーなんだ。随分高く売れそうだと喜ぶに違いありません。同じものを見ても、ある人は不幸に感じ、ある人は幸せに思うのはその対象物に対する価値観が違うからだと思います。健全な価値観は私たちを無用の恐れから解放する力になってくれるように思います。そして、聖書の中には健全な価値観に基づく言葉が満載されているのです。
 聖書の中に、こんな祈りが出てきます。

 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。私は主を待ち望みます。」

   ここには、人が試練の中でも、ぶれないでしっかりと自分を保つために必要な3つの人生観が証しされています。

生き方を左右する人生観

 第一に神の御前に生きるという人生観です。人間を創造された神様を除外した場合、人が自分の価値を推し量る物差しは大体、次の三つだと思います。
 まず、人からの承認です。自分の価値は他人から評価されることで決まるという考えです。この考え方で生きると人からの高い評価を得るために、自分本来の性質やアイデンティティを曲げてまで他人に合わせようとします。いつも必死で周りからの期待に応えようと努力します。たとえそうすることが、自分の大事な計画を犠牲にすることになったとしても、そのようにします。それで周りからは大変良い評判を得るかもしれませんが、大変ストレスの多い人生になるんですね。

完全主義の難しさ

 次に来る物差しは自分の価値は自分の行いで決まるという考えです。この考えの人が持つのは完全主義です。自分の価値は自分のおこなう実績で決まると考えるので全てにおいてパーフェクトでないといけません。「こうあるべきだ。」というのが口癖になりいつも何かに追われています。ある教育雑誌に中学校三年生の男の子の事が掲載されていました。彼は数学のテストを受けるのですが、五問中三問はすらすら解けるんです。しかし四問目は難問でなかなか解けません。それで、五問目に取り掛かりまして、かろうじて解くことができます。残り僅かの時間を使って四問目に取り組むのですが、ついに時間切れになりそうです。その時、彼は何を思ったか、書けている他の四問を消しゴムで消して憤然と席を立ったというんですね。なぜ、そんなもったいないことをしたんでしょう。完全主義に凝り固まっているからです。彼にとっては一問出来ないのは、全問出来ないのと同じことだというんですね。そんな子供はそうそういないと思います。しかし、それに近い考えで、しんどいめをして生きる人は、大人の中にも、たくさんいるのではないでしょうか。

自分の価値をどこに置くか

 三番目の物差しは自分の思い通りに事が進まなければ、自分には価値がないとする考えです。独裁者タイプに多い信念なんですね。このような支配的信念を持っている人は事が上手く進まないとすぐに精神的に立ち往生します。妻が自分の思うようにしてくれないと自分を軽く見ているのではないか、あるいは自分を裏切っているんじゃないかと考えます。そしてやたらと口うるさく妻の行動を縛り自分の思うようにさせようとします。当然嫌がられていくんですね。また支配的な人は相手だけではなく自分自身をも自分の理想通りにコントロールしようとして凄まじい努力をします。しかし現実的にはそんなことは長続きしませんので、いつも人知れず敗北感を抱えるのです。
 これら三つの考えは自分の存在価値の土台を他人の承認の上に置くか、自分の行動に置くか、自分の思い通りに事が運ぶかどうかに置くかという考えです。そして、三つとも不十分な土台なんです。自分の価値はどこに置いたらいいんでしょう。それは自分を作ってくださった創造主の上に置くことなのです。神が私を貴いものと造ってくださったがゆえに、私は価値があると承認できるのです。そしてこれが神の御前に生きるという事なんです。

あなたのためにいのちを捨てられた方

   第二に、ぶれない人生の秘訣は、神を赦しの神として信じる事です。私たちは神様の作品です。しかし、作者を離れて自分本位に生きてきたのではないでしょう。本物の神様を無視して偽りの神々を拝んで生きてきたのではないでしょう。しかし、神様は私たちの罪に目を留めるのではなく、赦してくださる神なのです。そして赦してくださる神だからこそ人は神を恐れるというのですね。赦された人が恐れを感じるのはなぜでしょう。それは罪ある人が赦されるために神がしてくださった償いが、あまりにも恐るべき償いであったからです。神はご自分の一人子イエスキリストを私たちの身代わりに裁いて下さったのです。
   私は今年鹿児島県にある鹿屋航空基地資料館に行きました。二階の展示室には特攻作戦のコーナーがあり、そこには本物の零戦をはじめ、特攻で散っていった隊員たちの遺影、日の丸寄せ書き、辞世の句、そして愛する家族への遺書が展示されていました。自分の息子たちの世代の若者が、後に生まれてくる同胞とこの日本の将来に夢を託して、見事な達筆で、笑顔で行って参ります。と書いてあるのを見て、本当に涙が止まりませんでした。ある人は死を前にそんなことを書くのは、彼らが洗脳されていたからだって言うんです。しかし、私は別の見方をしていました。その遺書を読んだお母さんや妻が行きたくない死にたくないと書けばどう感じるだろう。どう思うだろう。残された者たちの気持ちをくみ取ってあえて書いた遺書に違いないと思うのです。資料館を見学し終えた人たちは皆なにか厳かな気持ちに打たれて会場を後にしました。それは、今自分があるのは前の世代の犠牲の上に立っているからだと気付くからです。命の犠牲を前にすると誰もが恐れに似た気持ちになるのではないでしょう。ましてや、神のひとり子の命が、あなたのために犠牲にされたのです。あなたはこの救い主にどうお応えになりますか。

神があなたのために備えられていること

 第三に、ぶれない生き方の秘訣は神の答えは未来において準備されていると信じるという事です。
 私は主を待ち望みます。と先程の詩篇の御言葉の作者は言いました。私たちのために死んでくださったイエスキリストは死後三日目に復活し、四十日間弟子たちに現れ、その後に天に昇っていかれました。しかし、またこの世界に来られるのです。これをキリストの再臨といいます。キリストが再び来てくださる時、本物のクリスチャンは皆一人残らず天に引き上げられるのです。それが永遠のベストセラー聖書が繰り返し繰り返し語る未来において準備されている約束なのです。
 どうぞ、あなたもあなたのために死んで蘇り、そしてあなたを迎えんと願っているこのキリストを是非、信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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