旧約聖書
 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
(伝道者の書3:11)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.748 2014年7月27日

「来るべき世界への憧れ」

おはようございます、那須清志です!

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 今から111年前の1903年の12月、ライト兄弟が手作りの飛行機を使って、有人動力飛行に初めて成功しました。「機械が飛ぶことは科学的に不可能」と最初は大学教授や専門家たちからも随分疑われたそうです。そう考えるとこの110年余りの飛行機技術の進歩、飛行機ビジネスの発展は目を見張るものがありますね。
 人間は空中を舞う鳥を見ては、「自分たちも空を飛びたいなあ」と、また水中を泳ぐ魚を見ては「自分たちも自由に泳ぎたいなあ」と願ってきました。そして、機械や器具を発明してはその夢を少しづつ実現し、さらに大きな夢を抱いて進んできたのです。しかし、これらはあくまでも目に見えるものや存在すると確信できるものに対して抱く期待です。たとえば、宇宙の存在さえ知らなかったときには「宇宙に行ってみたい」とは誰も思いませんでした。地球の外に宇宙が広がっているということがわかってから「宇宙ってどんなところだろうか」とか「宇宙に行ってみたい」と思い始めたのです。

人間にはできなくなってしまったこと

 ところが不思議なことがあります。「人間が死んだ後の世界」についてのことです。人間は「死後の世界」あるかどうかわからないのに、とてもそのことが気になります。普段の生活で「死後の世界」なんてピンとこないし、文明や技術が発達してもこれについてはほとんどわからないのに、未だに考え続けているのです。宗教家たちやオカルト好きな者たちが「死後の世界はこんなのだ」とさまざまな意見を言い続けているのです。これほど考え続けてしまう、話題にしてしまうこと自体が不思議なのです。
 なぜでしょう?ずばり「死後の世界」はあるからです。私たちの心はそれを薄々感じているのです。私たちの魂は「人間は死んで終わりではなく、何かあるのではないか」と知っているからです。だから、人類は長きにわたって、それについてこだわったり、考えたり、議論してきたのです。
 今日は聖書が「死後の世界」についてどのように語っているか考えていきましょう。次のような聖書のことばがあります。

  「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」

 

人間の今の状態とは

 第一のポイントは、「人間は神によって霊を与えられて造られた」ということです。この「霊」という部分は、神を意識したり、神と交わりを持つ部分で、他の動物には与えられていないものです。その霊は永遠に存在するのです。肉体はこの地上を歩む上で必要な部分ですが、魂は霊的な世界で生きる上で必要な部分です。
神は、肉体と精神を使って人間同士がコミュニケーションを取れるようにしてくださいました。そして霊を使って、同じ霊的な存在である創造主と交わるように人間は造られたのです。しかし、人間は神から離れてしまいました。私たちの霊は、機能停止状態になってしまいました。ただ、霊があるだけに神について思いを巡らすのです。永遠の世界、死後の世界についても考えます。でも不完全な状態の私たちが「死後の世界」について考えると、勝手な想像を働かせ、歪められたものになる危険性があります。正しく知るためには霊を与えてくださった本当の創造主に立ち帰らなければならないのです。

人間にはできなくなってしまったこと

   第二のポイントは、「霊を持つ人間が死後行く世界は二つに一つ」ということです。さらに言うと、人間の死後の世界は「パラダイス」と呼ばれる創造主なる神の元で過ごすか。または「聖い神の前から退けられ、自分の汚れ、愚かさの中で裁きを受ける所」、これを「ゲヘナ」と呼びますが、このどちらかだと聖書は明言します。
 社会にはいろいろなルールがありますね。船や飛行機のような限られた空間の中でもルールがあります。先日、飛行機に乗っていたときのことです。すぐ前の席で、男性がビールを飲んでいました。実は機内では、その場で買ったアルコールはOKでも外から持ち込んだアルコールを飲むことはできないのです。乗務員は困ったような顔をしながらルールの説明をしていました。ちょっと特殊なビールだったので「その銘柄、私も好きです。」とか何とか優しく話しかけていました。「見逃してあげるのかな?」と思ったのですが、最終的な処置は厳然たるものでした。中身を残したままごみ袋に捨てられたのです。

罪の刑罰を身代わりに荷われる方

 人間の死後は、神の世界のルールに従って、「パラダイス」か「ゲヘナ」に行きます。これを単純に「天国」「地獄」ということばに置き換えたくありません。なぜなら人によって「天国」のイメージ、「地獄」のイメージが違うからです。今知っていただきたいのは、人間は死んだ後に他のものに生まれ変わることもありませんし、だれでも神の前に大手を振って出れるわけではないということです。

私たちの心の奥底にあるもの

   第三のポイントは「私たちが、永遠の神の世界、すなわち『パラダイス』に行けるように神が救いを与えてくださった」ということです。
 以前、福島県の山奥の村にある仮設住宅へ訪問しました。2台の車で別々に向かっていました。道は狭く、曲りくねり、街灯はなくうす暗く、車酔いの条件がすべて整っているような道でした。やっとのことで到着しましたが、思ったより早く着いたもう1台の車のメンバーたちは、何か平然としていたのです。それもそのはず、新しい道ができていたのです。道幅は広く、曲りくねってもいませんでした。思わず「ナビよ、しっかりしてや」とつぶやきました。
 さて、神を見失った人間が歩んでいる道を、聖書は「滅びに至る道」と表現しています。道を通っている本人には、行く着くところがどのようなところか、なかなかわかりません。でも空から見ればその道の先が見えます。神は私たちの行き着くところがわかるのです。滅びに向かって進んでいる人間を心から心配しています。

罪の刑罰を身代わりに荷われる方

 心配するだけではなく、実際に新しい道を作ってくださいました。神のひとり子であるイエスと共に造られた道です。道が一朝一夕でできないように、神は多くの時間をかけて救いの道を作ってくださいました。道を造るのに多くの費用がかかるように、十字架の上での死という大きな代価を支払ってこの道を造ってくださいました。そしてイエスを死から復活させ、神の永遠の世界への道を確かなものにしてくださたのです。
 私たちに必要なのは、永遠の天国への道を作ってくださったイエス・キリストを信頼し、その道を歩むことです。自分の行いや良い行いにこだわる前に、まず確かな道を歩んでいるかを確かめてください。心からお勧めいたします。

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