新約聖書
 聖書はこう言っています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」
(1テモテ1:15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.747 2014年7月20日

「キリストによる解決」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 先日、私は、まだ一度も面識の無い方に、所用で電話をかけることになりました。こちらが「もしもし」と言ったその瞬間、受け手の方が言われたのです。「高原さんですね!」いや、びっくりしました。一回も会ったことがないのに、声だけで私だと言い当てたからです。毎週、この聖書と福音を聴いているので、声を聞いただけでわかるんだ、と言われるのを聞いて、私は嬉しくなりました。その方の心の中に、私という存在があるということがわかったからです。この番組を聴いてくださる方の中には、まだ神様を信じていない方もいらっしゃると思います。しかし、あなたのほうで神を知らなくても、神のほうではあなたをご存知です。なぜなら、聖書の語る神は、あなたの作者であるからです。今日は、この神さまからの呼びかけについて、ご紹介したいと思います。

  「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」

  この箇所には、キリストがこの世に来られた理由が書かれています。それは、「罪人を救うために来られた」というのです。どうして、罪人が救われるために、キリストがこの世に来る必要があったのでしょう。それは、罪人が自分の力で神のもとに戻れなくなっている3つの理由があるからです。

人間の今の状態とは

 第一に、人は、自分の力で、正しく、神を認識できなくなっているからです。ところで、雪が降らない世界に生まれ育った人に、雪とは何かを説明するのは、難しいことですね。辞書には、「水が固体化して降ってくる降水現象」と書いてありました。確かに、雪は固体化した水です。が、氷ではない。霰ではない。雹でもない。白くて冷たくて、ヒラヒラ降ってきて、始めはとけるけれど、積もってくるとそのまま数メートルにもなる。雪国の人が聞けば、いかにもまどろっこしい説明になりますが、赤道直下の国では、言葉で説明されてもやはり、ピンとこないでしょう。見たことがないものを知ることは、本当に難しいのです。そして聖書によるならば、この世界は、神によって造られていながら、神を排斥している世界なんです。神などいない、という世界観で成り立っているこの世に生まれ育った私たちは、神がなかなかピンと来ないし、そのピンと来たと言っている神も、実像とはかけ離れていることが多いのです。

人間にはできなくなってしまったこと

   第二の問題は、人がたとい神を知ったとしても、自分の力で神の元に戻ることはできないからです。大阪府の北のほうに、能勢町という地区があります。今から半年ほど前に、こちらで大規模な土砂崩れが起こりました。その土砂は、建設現場でできたものです。ある建設会社が、家庭菜園を造るという名目で、道路の傍らに広大な土地を確保したのです。ところが、実際は野菜を植えるために使ったのではなく、工事現場で出た残土の捨て場所にしていたのです。積もり積もった土砂は9万立方メートルに達し、ある日、とうとうその土砂の山が崩れだし、道路をふさぎ、田畑は埋め立てられてしまったのです。その為に、車の通行はストップしてしまいました。能勢に行く人は、住民の住む場所のすぐ近くにまで行くことはできます。しかし、目的地の前に不正の土砂が立ちはだかっているために、そこにいる人々に会いに行くことができないのです。それと同じように、人は自らの罪という残土の山のゆえに、清くて正しい神の前に立ち戻ることができなくなっています。なぜなら、人は神の前に、巨大な罪が山のようにそびえたっているからです。

私たちの心の奥底にあるもの

   第三の問題は、疑いですね。神を信じない生き方に慣れ親しんできた人間は、神について聞くと、本能的に反発したり、疑いをかけてしまうんです。強力な偏見と思い込みで、神を信じることが何か非科学的で、時代遅れなことで、狭い世界に閉じ込められてしまうことのように考えてしまうのです。そしてその根底には、神は信頼に値するものなのだろうか、という、根深い疑いが横たわっているのです。
 この、自力で神を正しく理解できず、自力で神の前に戻ることができず、自力でこの疑いを消すことのできない人間の問題を解決するために、イエス・キリストはこの世に来られたのです。

キリストの生涯の独自性

   第一に、キリストはご自分を通して神を示されました。イエスがただの人間ではなく、人となった神であることを客観的に立証するために、キリストは、旧約聖書の預言をことごとく実現なさいました。実は、キリストが登場する400年以上前に完成していた旧約聖書の中には、やがて、神が人となって、この世界にやってくる、救い主として到来するんだ、と言う約束が300箇所以上も、前もって語られていたのです。その300以上の預言は100%、全て、イエス・キリストの生涯において、ことごとく実現したのです。誰もが客観的に判断できるように、預言の実現をもって、イエスはご自分の神性を明らかにされたのです。

罪の刑罰を身代わりに荷われる方

 第二に、キリストは、罪人がそのままで神に受け入れられるための道を切り開いてくださいました。人間の罪を、キリストが代わりに被ることで、人間を罪の刑罰から解放してくださったのです。これによって、いかなる罪人も、神に戻る道が確保されたのです。

疑いを払拭する究極のしるし

   第三に、キリストは、どんなに疑り深い人にも神のことばの真実を立証するため、復活してくださったんです。キリストの復活は、イエスの死後何百年も経ってから、後世の人々の口にのぼった、いわゆる「わいてきた」伝説、物語ではありません。イエスの処刑の直後、3日目によみがえったキリストを目撃したたくさんの弟子たちによって告げ知らされたニュースです。イエスを処刑した当局者たちは慌てふためき、何とかしてこの復活証言者の弟子たちを黙らせようとして、迫害し、拷問にかけ、撲滅しようとしました。しかし、かえって、このキリスト復活証言は、爆発的に広がっていったのです。なぜでしょうか。キリストの復活を裏付ける物的証拠が、その当時、あまりにも身近に、あまりにも多く見受けられたため、当局は復活メッセージを封じ込めることができなかったのです。そしてその最大の証拠は、イエスが葬られていた墓が空っぽになったことなんです。一体、イエスの遺体はどこに行ったんでしょう。弟子たちが盗んだのではありません。そんなことをしたら、弟子たちは嘘のために迫害を受けて命を落とすことになります。嘘のために命をかけることができる人はいません。当局が盗んだのではありません。そうであったら、イエスの遺体を見せつけることができたはずなのに、彼らはそれをすることができなかったからです。この、空の墓を、合理的に説明できる答えは、1つしかありません。イエスはよみがえられたのです。
 どうぞ、あなたも、死んで復活されたイエス・キリストを信じ、永遠の命を得てください。心からお勧めしたいと思います。

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