新約聖書
 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
( ルカ19:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.746 2014年7月13日

「イエスはあなたの名コーチ」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
 私は先日「変わった釣り人」というエッセイを読みました。その釣り人は次々に魚を釣り上げるんですが、大物が釣れると川に逃がしてやるんです。彼が持ち帰るのは全部小物の魚ばかりなんです。普通の釣り人がすることと逆のことをしてるんですね。見ていた人が不思議に思って、訳を尋ねるとこう言ったというんです。「実は我が家のフライパンの直径は20センチしかありません。つまり20センチより大きい魚は料理できないんです。だから20センチ以下の小魚を選んで、大きいのは逃がすんですよ。」一見合理的ですが、実にナンセンスな選択だと思います。彼がすべきは大きい魚を捨てることではなく、大きいフライパンを買うことです。なぜなら、小さいフライパンにこだわってるせいで食べられたはずのご馳走を食べることができなくなっているからです。

偏見なしに物事をとらえる幸い

 ところで、これと似たようなことを私たちもすることがあるのではないかなあ、と思うんです。自分の世界観に収まるものは受け入れるけれど、自分の考えをはるかに超えたものは捨ててしまうんですね。もしかしたら、捨ててしまってるものの中にこそ、自分にとって最もすばらしい宝となるものがあるかもしれないんです。そしてその最たるものは、神だと思うのです。神なんかいるはずがない、という今までの世界観にこだわってると、天地万物の創造主なる神の話を聞いても、「ああ、これは私には関係ない。」と心のシャッターを下ろしてしまい、よく考えることもないままに、祝福を逃してしまうことになるからです。聖書はそんな人間に対する、神からの語りかけなのです。
 今日はイエス・キリストが人間に語られたことばから、ご一緒に考えたいと思います。
 ある時イエスはこう言われました。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

   ここにイエス・キリストがこの世界に来られた理由が語られています。
 ところでキリストは、「人間を救うために来たのです。」と言わず、「失われた人を捜して救うために来た。」とおっしゃたのです。失われた人、とは一体、何を失った人のことなんでしょう?神との関係を失った人なんです。  私の住んでいる大阪に、全盲のスイマーで、パラリンピックの日本代表選手、生長奈緒美さんという方がいらっしゃいます。生長さんは、先天性の緑内障によって24歳で失明してしまいます。しかし、32歳で水泳を始め、北京、ロンドンのオリンピックでは上位入賞を果たし、二年後のリオデジャネイロ、六年後の東京オリンピックの日本代表入りをめざし、今も第一線で活躍しておられます。

私たちに必要な適切なアドバイス

   ところで全く見えない方にとって一番堪えるのは、音が聴こえないということです。そして水の中では音はほとんど聴こえなくなるんです。ところが、生長さんにとっては水中は決して居心地の悪い環境ではないというんです。陸上では、人にぶつかったり、溝に落ちたりすることを恐れて、全力で走ることはできません。しかし、水の中ではすべてのエネルギーを、水が受け止めてくれるので、思う存分手足を振り回すことができるからです。彼女は水の中で、自由を得たんです。しかし、この水中の自由を保障する上で、なくてはならないものが一つあるとおっしゃるのです。それは、プールサイドから飛んでくるコーチのことばなのです。コーチのことばだけが、自分の位置を知る唯一の手がかりとなるからです。見えない状態でただ闇雲に全力で泳いでいると、コースロープを越えて、隣のレーンに進入してしまうことがあるんです。レーンを間違ってしまうと、たといトップでゴールインしたとしても失格です。自分が正しいコースを進んでいるのか、ゴールまであとどれくらいの距離なのか、すべてはコーチのことばの指示を頼りに判断するのです。したがって、最大の障害は、コーチの声をかき消すようなお客さんたちの歓声なんです。もし歓声によってコーチのことばが聴き取れなくなると、ベストを尽くした戦い方ができなくなるというのです。彼女の競技人生は、コーチとのつながりによって、初めて成立するものなのです。

人間にとっての名コーチなる神

   それと同じように、私たちも人生のコーチである神とつながることによって、初めてまともな、そして全力を尽くす戦いをすることができるのではないでしょうか。なぜなら、私たちも明日どうなるかが見えないままに生きているからです。ところが、人は自らのこの人生の与え主にして、人生の名コーチである神との関係を断ち切っているのです。このように、神との関係を失っている人を、聖書は「失われた人」「神の前から失われている人」というのです。  コーチなしのアスリートに勝ち目はありません。いのちの創造主から離れた人間は、どんなにがんばっても、死んだ後に行き着くところは、神のいない世界です。永遠の暗闇です。死後に受ける裁きの世界です。この永遠の死の世界から私たちを救い出すために、神は人となってこの世に来てくださったのです。

私を命かげで救ってくださる方

 今年は中国の天安門事件から25年目の年です。当時北京にいたジャーナリストたちが、さまざまな記事を発表しています。天安門広場は世界最大の広場です。ここに事件の起こる一月前から、50万人もの若者たちが集結していました。取材のために日本や欧米のジャーナリストがたくさん現地の中にいる中で、6月4日、人民解放軍が人々に攻撃を始めたのです。そして西側のマスコミカメラが、惨たらしい虐殺現場をリアルタイムで世界中に配信したのです。当時そこにいたジャーナリストの書いた記事を、先日私は読みました。広場には、軍の銃撃で両足を粉砕され、もはや逃げることもできなくなった学生がいたというのです。阿鼻叫喚の中、彼はうめきながら身動きすらすることができず、ただただ叫ぶばかりでした。その時、一人の農夫が現れ、彼を抱き起こし、背中におんぶして病院まで運んでくれたというのです。そして名を名乗ることもなく、姿を消したというのです。一人の人の犠牲的な親切がこの若者のいのちを救ったのでした。どれほどうれしかったことでしょう。
 キリストは死が支配するこの世界に、一度人として生まれてくださったのです。それは死と恐怖が支配するこの世界の中で、私たちを抱き起こし、背中にしょい込んで、永遠のいのちと平和が支配する神の国に迎え入れるためなのです。人の子は失われた人を捜して、救うために来られたのです。人間を救うためには、人間の罪の償いがどうしても必要でした。キリストはあなたに代わって、あなたの罪の償いを十字架の上にかかって、果たしてくださったんです。そして、死そのものを打ち砕くために、死後三日目に復活されたのです。
 どうぞあなたもイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。

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