新約聖書
 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 (2テモテ4:6-8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.744 2014年6月29日

「人生の目標ー神の栄冠に向かって」

おはようございます、尼川匡志です!

カット
 先日、あるトップアスリートのインタビュー記事を読みました。それによるとアスリートが持つ目標には結果目標と姿勢目標の2つがあるんだそうです。結果目標とは例えばこの大会で優勝してやろうとかメダルを取るんだというようなものです。でも、この結果目標には不確実要素が多いんだそうです。たとえば100mの陸上選手がいたとして結果目標を大会優勝と置いたとします。でも、突然試合にウサイン・ボルトのような選手が出現したらその目標は達成できません。この結果目標とは自分だけでコントロールできないものなんです。ですが、自分の練習したことをこの試合ですべて出し切ろうという姿勢目標は自分のコントロール下にあるんです。そしてアスリートはこの結果目標に縛られるとガチガチに緊張してかえってよい結果が出せないというんですね。確かに、前のオリンピックでもそのような場面をいくつか見ました。

目標をもって人生を歩んでいく

 さて私たちの人生にもこの結果目標と姿勢目標の2つがあるように思います。最高の努力をしても不況という波が押し寄せればリストラや会社倒産も起こりえます。また、どんなに勉強しても自分より成績の上の人がたくさんいれば志望校には入れません。体調管理が万全でも病気になります。このように結果目標は自分の思い通りにはいきません。ですが、今言った事は基本的には人生のある一時点での結果目標です。では、私たちの人生そのものの結果目標とはなんでしょうか。人生を閉じるときに、私の人生は最高だったと思える事ではないでしょうか。では、人生を通しての姿勢目標とはなんでしょう。それは、私はこの人生をこのように生きていきたいんだという目標だと思います。今日は人生の2つの目標、結果目標と姿勢目標を聖書から考えたいと思います。
 聖書の一節をお読みします。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

   これは、紀元1世紀の信仰者パウロの遺言のような手紙の一節です。パウロは紀元60年半ば頃に殉教したと言われています。信仰のゆえに殺されたんです。先程読んだ中に世を去る時は既に来たとありました。それは、この殉教する時が目の前に迫ったという事です。さて、パウロの姿勢目標どう生きるのかという事ですが、彼は走るべき道のりを走り終えと言っています。これは自分の使命を成し遂げたという意味なのです。彼の姿勢目標は自分の使命達成なのです。皆さんはご自分の走るべき道、ご自身の使命をお持ちでしょうか。考えたこともないと言われるかもしれません。でも聖書は全ての人に達成すべき使命、走るべき道のりがあるんだと言っているんです。もし、私たちがこの世界に偶然誕生したなら達成すべき使命はないでしょう。なぜなら出会いも別れも成功も失敗もすべてが偶然の巡り会わせなんですから。

自分の造り主に出会う意味

   しかし、この世界が神のご計画の中で意味と目的を持って誕生したのであるなら、私たち一人一人にも生まれる意味と目的があり使命があるはずです。例えば、映画を作る時、その映画監督が主役や脇役、通行人一人ひとりに至るまで全てのキャストを目的を持って集めます。同じように私たちも必要だから神がこの世界に生み出したという事です。私たちは例外無しに自分の走るべき道のりを持って、この世界に誕生したのです。その道はオリジナルであり他人と比較する必要のない道です。ただし、その道を走るかどうかはその人の選択です。では、どうすれば自分の走るべき道を知ることができるでしょうか。先程、映画の事をお話ししました。通行人がどうすればいいのかは監督に聞くのが一番です。私たちもこの世界に私を生み出した方の所に行き聞けばいいんです。つまり、走るべき道を知るためには神と出会う必要があるんですね。

神はあなたに栄冠を用意しておられる

 さて、もう一つの人生目標、結果目標とはなんでしょうか。私たちの人生の最終到着点は例外無く死です。そして死は自分のコントロール下にはありません。長生きしようと思っても、大きな災害が来れば吹き飛んでしまいます。死はコントロール不能の代表のようなものです。
 しかし、先程のパウロの言葉はとても興味深いですね。今から栄冠が用意されているだけですと言ったのです。今からとは死んで後の事を指しています。彼は死んだ後、自分を待っているのは栄ある冠だと言ったんですね。これは、アスリートで言えばオリンピックの金メダルいやそれ以上の物でしょう。そしてこの栄冠が貰えたらいいなあと希望を言ったのではなく、用意されていると断言したのです。結果目標のはずなのに間違いなく手に入れらるものだとパウロは言ったのです。何故そんなことが言えたのでしょう。実はこれは彼に与えられた神からの約束だからです。パウロは神に与えられたその約束を目当てに全力で走っていたんですね。パウロは人生の半ばで神に出会いました。その時から彼の人生は一変します。神に出会い、神を信じるという事はこの世界で悩みや問題が起こった時わずかな慰めを得るというような小さなことではありません。人生そのものがダイナミックに変えられていくという事なんです。それは、自分の人生には他の誰にも実現できない使命があるという事を知る事、つまりこの世の評価など関係なく私はこのために生まれ生きているという確固たる走るべき道を見出すことなんです。そしてその人生の果てには不確実なものではなく、神が約束した栄冠が待っているのです。

全力で走り切れる人生

 金持ちでも、学者でも、政治家でも、この世の多くの人は死の絶望に向かって恐れながら進んでいます。しかし、パウロは神が約束する栄冠に向かって全力で走っていったのです。希望の光に向かってです。パウロは確かに殉教しました。殺されたんです。しかし、間違いなく彼はその最後の瞬間に私の人生に悔いはなかった。最高の人生だった。と思い、天に帰ったんでしょう。私はそのような人生を歩みたいんです。迷子のようにどの道が正しいのかが分からない人生ではなく、失敗か成功か分からない人生ではなく、希望の光に向かって全力で走り切りたいのです。そしてあなたにも、その道を歩んで頂きたいのです。神に出会って下さい。神を是非信じてください。その道が見えてきます。心からお勧めいたします。

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