「イエスの復活とは?」
さて、十字架にかけられて無残な死を遂げたイエス・キリストが死後3日たって蘇ったということを聞かれたことがあるでしょう。この「イエスの復活」は、先ほどお話した女性の「蘇生」とは意味が違います。その女性が今も健在であるかはわかりませんが、いずれは死を迎えなければなりません。彼女の場合は、死亡を宣告された肉体の命が一時的に、奇跡的に回復したという意味です。しかし、イエスの場合は、新しいいのちを与えられて、外見は以前とよく似ていたものの新しい体をもって人々の前に現れたというのです。
聖書が明確に語るイエスの復活
「死後三日経ってからの復活!?」「信じられない!「これだから聖書は信じられない…」と思う方も多いと思います。私もかつてはそうでした。そこで今日は、「イエスの復活」を考えるとき、押さえておくべきポイントを3つ考えていきましょう。次のような聖書のことばがあります。
「あなたがたが、この方を引き渡し、…いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことをの証人です。」
第一に、イエスの復活は創造主なる神が行われたこと、ということです。ここで言う神は、人間にいのちを与えた創造主です。この天地万物を創造された偉大なデザイナー、そして偉大なメーカーなる方です。
「STAP細胞」のことではいろいろな議論が巻き起こりました。「STAP細胞」という万能細胞をつくることができるのかが問題になっているのですが、ちょっと考えてみてください。私たちはみな、一つの細胞である受精卵から始まり、万能細胞の状態を経て、60兆の細胞を持つ体に成長してきたのです。細胞分裂を繰り返し、あるものは筋肉となり、あるものは骨や歯となり、体のさまざな器官、臓器に変わっていく見事なシステムを私たちは持っています。これが偶然に出来るのでしょうか?それを設計し、造り、動かし始めた知恵に満ちた方がおられはずです。それを聖書は「創造主」と紹介しているのです。
いのちを与える創造主がイエスを復活させた
実は、この体とて目に見える物質に過ぎません。目に見えない霊の部分、いのちの部分はもっと奥深いものであるといわれます。それを造られ、一人ひとりに与えられたのも創造主なのです。
この神が、十字架で死なれたイエスに新しいいのちを与えられた、と聖書は語っています。私たち人間は、母の胎の中で形造られ、神から霊を与えられて「人」となりました。イエスは、死後、神から新しい霊を与えられました。いのちの造り主である方が、死んだイエスにもう一度新しい命を与えようとされました。であれば、よみがって当然ではないでしょうか。イエスは神の力によって蘇らされたのであれば、「あり得ない」という人間の思いは吹き飛ばされます。
創造主は復活という「しるし」を示された
第二に、「イエスの復活」は聖書の中で預言されていた「しるし」だったということです。聖書は偽者の救い主もたくさん現れると警告しています。偽のキリストと本物のキリストを見分ける手段、それが「復活したかどうか」なのです。死を突き破れないものが、死の問題を解決することはできないでしょう。イエスは復活により、死の問題を解決できる救い主とし公に示されたのです。
ときどき家に贈り物が届きます。その荷物が届く前に、送り主から連絡を頂くことがあるんですね。突然、何事だ、と思われないように、送った理由や、中身について説明をしてくださるのです。突然頂くのも楽しいものですが、来るのがわかっていて待つのもなかなかいいものです。
イエスの復活という人類へのプレゼントについても、イエスが生まれるはるか前から旧約聖書の中で説明されていました。また、イエス自身も自分が死んだ後に復活するということを予言されました。しかし、あまりにも突拍子もないことなので、それを聞いた弟子たちは信じることができませんでした。予告どおりイエスは殺されてしまったから、次に予告どおりイエスはよみがえる、と弟子たちには思えなかったのです。彼らが復活の預言を理解し、イエスの復活を信じたのは、目の前にイエスが現れてからです。イエスの復活は、人間にとっては想定外のことでしたが、神にとっては想定内のことであったのです。
最初から復活がメッセージの中心だった
第三に、イエスの復活こそ、初代クリスチャンたちが伝えたメッセージの中心だった、ということです。
イエスの弟子たちは、イエスの偉大さを補うために、それらしいエピソードとして復活の話をつけ足したのではありません。また「みんなの心の中で生きていて、いつまでも忘れられない。」というように本物の肉体の復活ではなく、人々の心の中のことを表している、と考える人もいます。しかし、聖書はそのようなフィーリングの世界の話をしているのでもありません。
人が死後3日目に蘇るということは、今の私たちにはオカルト映画の中の話ぐらいにしか受け止められませんね。しかし、信じにくいという意味では、今の昔も変わりません。信じさせたければそのような話を前面に持って来ない方がいいのです。しかし、弟子たちにはできませんでした。 その信じにくいことを目の当たりにしたからこそ、弟子たちはいのちを賭けるだけの確信が与えられ、証人となったのです。イエスの12弟子のうち、ヨハネは迫害を受け、島流しに会い、過酷な日々を過ごしました。彼以外の弟子たちは、このメッセージを伝えたために殉教しました。数えきれないほどのクリスチャンたちが拷問を受け、悲惨な殺され方をしました。しかし、自分たちの語っていることを撤回しませんでした。そのメッセージの中心は「イエスは本当の救い主、私の罪のために十字架で死なれ、死を突き破って蘇られた」ということだったのです。
このイエスに信頼するのものは、罪の赦しとイエスが受けた復活のいのちのプレゼントを受け取ることができます。是非、みなさんも、この本物の救い主イエス・キリストを信じて歩んでください。こころからお勧めいたします。