旧約聖書
 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。
(箴言28:13)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.737 2014年5月11日

「成功者の秘訣」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 かつて全米で最も人気のあった作家マーク・トウェインがまだ無名の頃の話です。彼は自分の原稿がボツにされたり、手を入れられたりして出版社から送り返されてくると、烈火のごとく怒ったのでした。そして辛辣な言葉と、ありったけの毒舌で、相手の担当者を攻撃する手紙を書いて、奥さんに「投函しとけ!」と命じていたのです。実績もない新人作家から偉そうに、激烈な言葉で罵る手紙が何度も何度も送りつけられてきたら、出版社も腹に据えかねるようになるのが普通です。ところがどの出版社もマーク・トウェインに腹を立てることはありませんでした。夫人は全部ごみ箱に捨てていたのです。賢い助け手を持った人は幸いですね。しかし、誰よりも賢いのは神様です。神様を自分の助け主とする人ほど安全かつ幸いな人はないんですね。
 さて聖書の中にこんな言葉があります。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」

 ここには人生の成功者となるために必要なことが三つ書いてあります。

自分の罪を正直に認める幸い

第一に、自分の背きの罪を隠さないで、救い主に告白するということです。告白するためには自分の罪と向き合って、それを正直に認めなければできません。また自分の罪の告白を聞くキリストが、赦してくださるんだということを信じていないとこれはできないことだと思います。
 先日私はある地方の集会に参りました。そこに約10年前にお母さんを亡くされた娘さんがおられたのです。お母さんはホスピスで亡くなられました。癌だったんですね。しかし、入院中ご主人に対して大変つらく当ったと言うのです。娘さんから見てもお父さんは長身で、イケメンで、さっそうとしているのですが、お母さんの前では小さく小さく身を縮めています。なぜならお母さんはどうしてもお父さんを赦そうとしなかったからです。「この人は若い時に浮気をした。そして私の両親が残してくれた遺産を浮気のために使い果たした。この人は養子だったのに私の家をガタガタにした。」愚痴が始まるまでは実に似合いのシルバーカップルにも見えるのですが、いつも最後は「謝りなさいよ!」と一喝されるのです。それでご主人は、「ごめんね、ごめんね」と謝るのですが、「あなたが謝ってるのを見るともっと腹が立つ!」っておっしゃるんです。もうどうにもなりません。
 しかし、いよいよお別れの時が近づいてきました。その時、娘さんに向かってこうおっしゃったんです。「私はバカな母親だね。だけどね、私はあなたのお父さんのことが好きで好きで大好きでたまらないのよ。でもこんなにも大好きなのに裏切られたことが悔しくて、辛くて、痛くて、たまらないのよ。」それを聞いていたご主人が「本当にすまなかった」と言ったとき、「あなたのことが好きでたまりませんでした。」と言って、その週末に亡くなられたのです。彼女は最後に心の一番奥底に秘めていたことを告白して初めて楽になったんですね。しかし、それをもっと早く告白していたら、もっと穏やかに最後の一か月を過ごすことが出来たかもしれません。

私たちの罪の刑罰はすでに終わっている

 人が自分の気持ちを正直に告白するのは何と勇気のいることでしょう。それを言ってしまったら本当に楽になるのに、なかなかそれを言い出せないのは、聞いた相手が自分とその告白を拒むのではないかと不安になるからではないでしょうか。しかし神は決して罪人を追い返す方ではありません。むしろ人が自分の反逆を認めて、神の元に戻って来るのを神様は首を長くして待っておられるのです。なぜなら神は罪を赦しておられるからです。あなたの罪の刑罰はすでにキリストにおいて終わってるんです。罪のないキリストがあなたに代わって罪の刑罰を十字架の上で受けてくださったのです。

新しい歩み入る秘訣

 第二に、その罪を捨てることです。捨てるというのは本当に悔い改めているということの印なんです。もし盗んだのだったら返しに行くことです。壊したんだったら直しに行くことです。自分にできる範囲で被害を与えた相手に償いをするということです。それは神の前に罪赦された者にとって、新しい人生を歩む上でのリハビリになっていくのです。
 ここで新しい歩みを始めるために大事なことが一つあります。それは過去に自分がしでかしてしまった事実は、自分自身ではないということです。ある人たちはギャンブルによる借金で人生を駄目にしてしまったことで、生きて行るということそのものに罪悪感を感じて苦しんでいます。またある方々は過去の性的な罪のトラブルのために、自分自身が薄汚い存在だと思い込んで苦しみ続けています。またある人は人に言えない依存症のために人生を台無しにし、その現実から自分自身を軽蔑し続けています。それらのギャンブルや、性的な問題や、依存症というのは確かに恥ずかしいことです。しかし恥ずかしい事実と、私自身の存在が恥ずかしい存在であるという事とは別なのです。過去にしてしまった出来事は確かに私がしたんですが、その出来事と私はイコールではありません。なぜなら神はしたことと、した人を分けて考えてくださるからです。したことは取り返しのつかないことです。しかし、した人を神は赦すだけではなく、全く新しくしてくださる方なのです。

神は私たちに力を与えてくださる

 神様はご自分の力をキリストを信じる人に与えてくださるのです。しかし、もし人が恥の悪循環に捕らえられていたら、前に向かって進むことが出来なくなります。過去に大きな罪を犯した人に未来はもうないというのは悪魔が人を駄目にするために吹き込んでいる天下の大嘘です。人は罪を犯します。しかし、人の存在そのものが罪そのものなのではありません。そもそも人を存在させてくださったのは神なのです。神は人にやり直しのチャンスを与えてくださるのです。

聖書を信頼することでもたらされる祝福

 第三に、神の憐みという祝福があると信じることなのです。信じて歩み出すということなんです。この神に対する信頼の根拠は聖書です。聖書はこう約束してるんです。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」

 どうぞあなたも自分の罪を救い主イエス・キリストに告白して、この方によって新しい人生を歩んでください。心からお勧めしたいと思います。

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