新約聖書
 不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。
(ローマ4:7-8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.736 2014年5月4日

「キリストによる幸福論」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 さて、今年はサッカーのワールドカップ、ブラジル大会がありますね。ナショナルチームによるサッカーの世界選手権大会です。テレビの視聴者数ではオリンピックをも凌ぐ世界最大のスポーツ大会なんだそうです。このワールドカップに三回連続出場した日本人に中田英寿さんという方がいます。彼が出場する時、親友の木村拓哉さんが電話で彼に送った言葉は中田選手を大いに奮い立たせたと言われています。一体なんて言ったんでしょう。大きなプレッシャーがあるかもしれないけど、そのプレッシャーを味わえる日本人はたった11人しかいない。究極のプレッシャーを楽しんできてください。大会のスケールが大きいほど緊張も凄まじいものになりますよね。しかし実は、それは辛い事なのではなく凄く幸せな事なんだと気付くと、余計な力が抜けて立ち向かって行けたっていうんですね。
 さて今日は聖書が語る幸せ、幸いについてお話したいと思います。
 聖書にこう書いてあります。

「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

 ここから3つのポイントで聖書メッセージをお伝えします。

神の前における人間の状態

第一に、人はみんな罪人であるという事です。罪人とはどんなことなんでしょう。それは神から離れて生きる人の事なんです。神にそっぽを向いて、神と別方向に向かって生きる人を聖書は罪人というのです。あるクリスチャンの精神科医がこんなことを書いていました。人生は心の向きで決まる。
 たとえば、二人の御老人がいて、一人がこう言います。目は見えるんだが、最近、耳が遠くなったな。しかし、もう一人はこういいます。耳は遠いけれど、目はまだまだよく見える。二人とも状況は同じなんですね。耳が聞こえにくいんです。しかし、失われた能力に心を向ける人と、残されている能力に目を留める人とでは、幸福度が違うんですね。残された能力に目を留める人の方が幸せであるのは言うまでもありません。また、うつ病にかかると不眠と食欲不振になることが多いと言われています。回復途上で、ある患者さんはこう言います。眠れるようになったけど、食欲の方は相変わらずさっぱりだ。しかし、もう一人は言います。食欲はないけど最近はぐっすり眠れるようになってありがたいな。二人のうち、どちらが回復度が良いでしょう。悪い部分よりも良い部分に心を向ける人の方が回復が早いのだそうです。
 朝から晩まで仕事に明け暮れ、家庭に心が向いていない人はどうでしょう。きっと夫婦関係や親子関係にひずみが生じてくるような気がします。心が外に向いているので関係が壊れてしまうんですね。少しの時間であっても心が家庭に向いているなら関係は回復していきます。しかし、長い間家にいたとしても心が外に向いているなら見えない壁ができてしまうのです。

罪とは神との関係が切れている状態

   それと同じように神から心が離れ、背中を向け、そっぽ向いて離れてしまうなら神との関係が断絶してしまうのです。そして、人生から神を除外することが人を自己中心に追いやります。自己中心の人は他人に対して支配的になりがちです。そして人は支配的な人から離れていくのです。こうして人間関係までがつぶされていくのです。人生の根本問題は人間をこの世に存在させた造り主との関係を打ち切って生きる事なのです。この神との断絶を聖書は罪と言います。この根本的な罪が様々な派生的な罪を生んでいくんですね。

神は罪から人間を救ってくださる

 第二に、神は人のどのような罪をも完全に覆って下さるというのです。
 最近インターネットの普及とともに今まではなかったサービスを提供する会社が登場しました。それは情報削除会社なんです。これは、ネット上に出た自分に関する情報を削除してくれるという会社なんです。たとえば酔っぱらった勢いでアップした自分の羽目を外し過ぎた写真を別の人がダウンロードして別のサーバーに再アップロードした場合、本人にはもう削除するすべがありません。あるいは根拠のない非難や中傷、デマや悪意のある噂などは一度ネット上に上げられてしまいますといつまでも残ります。検索されればいつまでたっても見つけ出されてしまうんです。本人が死ぬまでどころか死んだ後もその状況がずーっと続くんですね。そうして世の中にはかつての自分の知られたくない情報がどんどんどんどん拡散していくことに苦しみ、人生のやり直しができないと怯えている人がたくさんいらっしゃるのです。このような人たちの恥やいわれなき悪評が他の人の目にさらされないように削除する会社が大変な人気になっているというのです。

キリストはあなたの罪を赦すために十字架へ

 さて、人間でも表に出た情報を削除する技術というものがあるのです。しかしキリストは人間の人生の中でしてしまった罪や悪しき過去を完全に許したうえですっぽりと見えないように覆い神の前に私たちを罪なき者としてくださるのです。しかし、それはキリストにとっても決して生易しいことではありませんでした。なぜならキリストは私たちの罪の償いとしてご自分の命を投げ出さなくてはならなかったからです。キリストはあなたの赦しを獲得するためにご自分を十字架の上で捨ててくださったのです。

祝福に満ちた主権者なる神

 第三に、神はキリストを自分の救い主として信じ受け入れる者を罪許すだけではなく、祝福を注いでくださるというのです。
 ところで、幸いという漢字は、辛いという漢字に一本多い文字ですね。この幸いという文字はもともと両手を稼にはめられている囚人の様子を象形したものなのです。両手が自由に動かせないように分厚い木の板に手首をはめ込まれた囚人の姿を表しているのです。どうしてこれが幸福を表すんでしょう。実はこの囚人は本来死刑にされるところだったのを主君の恩赦で手首束縛の刑に減刑されたからです。本当だったら命をとられて当然の所をこの程度の軽い刑罰にしてもらえた囚人はただただ幸せを感じているという姿を表しているんです。死んでいたところを命だけは助けて貰った事に感謝と幸せを噛みしめているんですね。

神の祝福を頂くものとなる

 しかし、キリストが下さる救いは裁かれて当然であった罪人を軽い刑罰でとどめるというレベルの救いではありません。本来、永遠の地獄が当然だった人に完全な赦しと、神の子としての立場、天国の国籍、神様の宝物とまでして下さるというのです。どうぞあなたのために死んで蘇ったイエスキリストを今受け入れようではありませんか。心からお勧めしたいと思います。

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