「道・真理・命なるキリスト」
ところが、当日は、静岡でも数十年ぶりという大雪だったのです。全面ガラス張りの壁から見える景色は、雪にけむる銀世界だけです。準備をしていた人たちは皆、たいへん悔しそうにしていました。そして、「本当なら、この辺りに、こんな風に、こんな形で、雄大な富士山が見えていたはずなのに!」と、見えない富士山のすばらしさを力説なさるのです。それを聞いていた家内がひとこと、こう言ったんです。「まるで、神様みたい。見えないけれども、確かにそこにおられる、という点で」。本当に、その通りです。目の前のガラスの塀のむこうには、白銀世界以外に、なんにも見えません。しかし、確かに雪の向こう側には、日本一の山である富士山が、どっしりとそびえ立っているんです。「見えない」というのは、「存在しない」ということではありません。単に、姿が目では見えない、というだけの話です。
神が遣わされた救い主
これは、私たちを造られた神様についても言えるんです。神様は、肉眼では見えません。しかし、いないのではありません。見えない姿で存在し、あなたを見守っておられる方なのです。そして、この見えない神との関係を切って神から離れた人間を、ふたたび、魂の親である神の元に連れて行くために、神が遣わした救い主が、イエス・キリストなのです。あるとき、キリストはこうおっしゃいました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
ここでキリストは、ご自分のことを、3通りの言葉で自己紹介しておられます。
イエスは神への唯一の道
第一にキリストは、私たちを神にいたらせるための、唯一の「道」なのです。私は、姪の結婚式の翌日、静岡のとある教会で、聖書メッセージをしました。そこに80代なかばの男性が、孫に連れられて参加しておられました。聖書の話は、なんど聞いても難しくてわからない、というのが、この方の口ぐせでした。ところがその日、お孫さんに、ふと、何十年も前に静岡から福島の教会に行ったときの話を、突然はじめられたのです。教会を出て、それから、もと来た道を車で帰ることになったのですが、慣れない地方の慣れない道を、グルグルグルグルまわっているうちに、完全に道に迷ってしまったというのです。まだ、カーナビなんて便利なものが無い時代の話です。途方にくれていたそのとき、一台のトラックが通り過ぎていきました。ふと、そのトラックを見ると、なんと、静岡ナンバーだったって言うんです。このトラックのあとを付いていったら、きっと静岡まで戻ることができる、と信じた彼は、ただただ、ひたすらに、後ろを付いていったんです。そして、程なく静岡に帰り着くことができたって言うんですね。お孫さんは、間髪をいれずに言いました。「そのトラックこそは、イエス様だよ!イエス・キリストは、[天国]というナンバープレート、[罪の赦し]というナンバープレート、[永遠の命]というナンバープレートを示して、わたしに付いてきなさい、わたしが魂のふるさとに連れ帰ってあげるから、と招いてくださってるんだよ!」おじいさんは目を輝かせて、「わかった、ようやくわかった」と言ったのです。キリストは、あなたの造り主である、神の元から来られた方です。あなたを魂のふるさとに連れ戻せるのは、ただ、イエス・キリストだけなのです。
イエスは究極の真理なる方
第二に、この方は、「真理」そのものなる方なのです。多くの宗教家は、真理が何かがわからなくて、それに悩んで修行し、自分なりの答えを見いだします。また、自分のなかに真理や真実がないこと、いや、むしろ、偽りだらけの罪人であることに悩んで、求道の末に、自分なりの納得のしかたを持つのです。しかし、イエス・キリストは、真理が何かを悩んだことは、一度もありません。なぜなら、ご自分こそは神の真理そのものであるという自覚を、持っておられたからです。また、自分の罪に悩んだことは、一回もありません。何一つ、罪が無かったのです。ただ、イエス・キリストは、自分以外の人の罪のために、悩んでくださったのです。もし、自分こそ神の究極の真理であり、ただのひとつの罪も無い、と言う人間がいたら、その人はきっと、鼻持ちならない人格ではありませんか。高慢な人間が持つ冷たさ、残酷さ、苦々しさが、ぷんぷん臭ってくるのではありませんか。しかし、キリストはじつに謙遜で、温かく、赦しに富む方であったのです。まさにこの方は、人となった神に他ならないのです。
イエスは神のいのちの現れ
第三に、キリストは、神の「いのち」そのものなる方です。そして、人間を神のいのちで回復させてくださる方なのです。
ノルウェーのファンタジー物語に、ムーミンという作品がありますね。この本の中に、ムーミンが家の中で友達とかくれんぼをして遊ぶ、という話があるのです。隠れ場所を見渡していると、ふと、ひとつの帽子が目に入ります。それは、おさびし山で見つけた、魔法の帽子です。ムーミンはいたずら心で、その帽子をかぶってみました。すると、その瞬間に、姿が変貌してしまうのです。それは、いかにも醜く、恐ろしい、薄汚い、怪物の姿でした。友達はみんな悲鳴を上げて、逃げていきます。ムーミンは必死で追いかけながら、大声で言います。「ぼくだよ、ムーミンだよ!」しかし友達は、だれひとり信用してくれないのです。「おまえは僕らが知ってるムーミンじゃない、ムーミンはおまえのようなモンスターじゃない、今のおまえを見てみろ、まるでけだものじゃないか!」そのとき、ムーミンママが帰宅するのです。ムーミンは藁にもすがる思いで、ママのところに近づいて行きます。ママならきっと、ぼくだとわかってくれるはずだ、と信じていたからです。ムーミンママは、その怪物をじっと見、手で触れ、言ってることばに耳を傾けると、こう言うんです。「たしかに、ムーミンだわ」その言葉を聞いた瞬間、ムーミンは元の姿に戻るんですね。
イエスは私たちを受け入れてくださる
キリストは、私たちが罪によって、どんなに醜い姿に変わり果てていたとしても、神のかたちに似せて造られた事実を、見落とさないお方です。そして罪にまみれた私を、すっかり清めつくして、確かにわが子だ、と言って、受け入れてくださる方なのです。
どうぞあなたも、この、道にして、真理にして、いのちなるキリストを信じてください。そうするならば、あなたはキリストに会って、神様の子供として、父のみもとに帰ることができるのです。どうぞ、この幸いな決心をなさってください。心から、お勧めしたいと思います。