新約聖書
 イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のあるものは聞きなさい」と叫ばれた。
(ルカ8:8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.728 2014年3月9日

「聞く耳のある者は聞きなさい」

おはようございます、尼川匡志です!

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 最近コミュニケーション能力という言葉をよく耳にします。このコミュニケーション能力とは大きく分けて「話す力」と「聞く力」に分けることが出来ます。もちろん、どちらも大切なんですが、どちらがその人を成長させるのかと言うと、私は聞く力ではないかと思うんです。なぜなら、人間は今までと違う新しい考えを、自分だけで作り出すことはなかなかできません。他人の考えや意見を聞いて、今までと違うものの考え方や見方が生まれるのです。人の意見を聞かない人は、どうしても考えが狭くなるし、見方も一辺倒になりがちです。ですからその人の益になるのは、やはり聞く力ではないかと思うんです。そして、今この聞く力が落ちています。
 さて聖書はこの聞くということがとても大切だと語っています。旧約聖書の中には何度も「聞け。イスラエルよ。」という言葉が出てきますし、新約聖書の中の重要な言葉として「信仰は聞くことから始まる」というものもあります。また別の箇所にはこのようにも書かれています。

「イエスは、これらのことを話しながら『聞く耳のあるものは聞きなさい』と叫ばれた。」

「聞く」と「聴く」の違い

 聞く耳のあるものは聞きなさいとは何とも不思議な言葉ですよね。聞く耳のあるものは聞きなさいとはどういう意味でしょうか。一つ言えるのは、聞き方の問題だということです。昔、中学校の英語でこの聞くという意味の単語をいくつか習いました。その代表が「hear」と「listen」です。「hear」は聞く、「listen」は注意深く聞くと教わりました。この区別は日本の漢字の中にもあります。門構えの中に耳と書くのは普通に「聞く」ですが、注意して聞くときには、傾聴や聴衆に使う耳へんの「聴く」という字を当てます。そして聖書が求めているのはlistenであり耳へんの聴くなのです。つまりイエスは注意深く聞くことを求められているのです。またこの「聞く耳のあるものは聞きなさい」と叫ばれたという聖書の言葉は日本語では表現しにくいんですが、言語では、聞く耳のあるものは聞き続けなさいと叫び続けられたという継続のニュアンスが含まれているんですね。イエスは弟子たちに向かって、注意深く継続して聞き続けることも何度も何度も勧められた、という意味になるんです。

必要なことを教えてくださる神

 聖書の言葉は確かに難解なところがあります。ですが、もしあなたが聖書は何を語っているのか、心から知りたいと思われるなら、ご自分の先入観や思い込みを捨てて注意深く聞き続けることが必要なんです。そうすれば、「求めよさらば与えられん」と約束された聖書の神が必ずあなたに必要なことを教えてくださるはずです。なぜなら、神は今も生きて働かれる神だからです。

永遠のいのちを得る方法とは

 さて、ある時、イエスのもとに一人の青年がやってきました。彼はイエスにどうしても聞きたいことがあったんです。それは、永遠の命を得るにはどんな良いことをすればいいのか、ということでした。私たち日本人の多くは、人間は死んだら終わりと考えています。でも果たしてそうでしょうか。あるとき私たちを突然死が襲います。すると、たとえその人が若くても、幸せの絶頂であっても、社会からどれ程必要とされていても、新婚でも、子どもがまだまだ手のかかる時であっても、関係なくすべてが奪い去られます。それが死です。もし死がすべての終わりであるならば、私たちはいつもこの突然訪れて来る死を恐れなければなりません。日々、心平安に過ごすことも難しくなります。なぜなら、いつこの死が私に襲い掛かるのかが全く予測つかないからです。しかし、聖書は人間は死んで終わりではない、永遠の命があるというんですね。そして、この青年はその永遠の命が欲しかったんです。だからイエスの所に来て、どんな良いことをすれば手に入りますかと聞いたんですね。実はこの青年の質問に対する答えは聖書の別な箇所で明記されています。それはこうです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

人間が陥りやすい誤った考え

 御子とはイエス・キリストのことです。イエスを信じるなら永遠の命を持つ。これが聖書の答えです。しかしイエスはこの時、青年にそうはお答えになりませんでした。このときイエスが青年に言った答えは、戒めを守りなさいというものでした。なぜそのように言われたのでしょうか。実は、この青年は一つ大きな間違いをしていました。それは、命は自分の努力や行いでもらえると考えていた点です。私たちが今生きているこの命も、自分の力や努力で手に入れたものではありません。もらったんです。誰にでしょうか。命の主権者である神からです。しかし、彼は自分の善行で永遠の命を手に入れられると考えていたのです。イエスはその間違いを彼に示そうとされました。そこで彼が言っている良い行いである戒めを守るようにまず伝えたんです。そしてさらにあなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人に分け与えるように言われたんですね。これには青年は大きなショックを受けました。大金持ちだったからです。彼にはそんなことはできなかったし想像もしていませんでした。聖書は財産を売り払わなくては信仰は持てないなどとは言っていません。この青年が良い行いをして永遠の命を得ようとしたので、あなたの全財産をなげうつことが出来るのかと突きつけられたのです。

神が私たちのためにしてくださったこと

 私たちは誰でも出来ることと出来ないことがあります。限界があります。人間は完全に正しく生きることなど出来ないんですね。私たちがもし良い行いをしなければ、永遠の命がもらえないとするなら、だれ一人その資格はありません。私たちは正しく生きることが出来ないのです。つまり自力で永遠の命を得ることはできないんです。だからイエスが来てくださったんですね。そして私たちのすべての罪を十字架で処分してくださり、私たちに永遠の命を与える方法を完成させてくださったんです。ですからこのイエスを信じる者は、良い行いをするかどうかではなく、誰でも永遠の命を無条件でもらうことが出来るんです。これが福音です。この福音を聞く耳のあるものは聞きなさい、注意深く、継続して、聞き続けないさいと言われるんですね。ぜひこの福音を聞き続け、信じ受け入れてください。永遠の命をご自分のものとしてください。心からおお勧めいたします。

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