新約聖書
 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
(マタイ5:4)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.724 2014年2月9日

「祝福された悲しみとは」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 先日私は、『ネガポジ辞典』という本を読みました。これはネガティブな、否定的な言葉を、ポジティブな、肯定的な言葉に置き換える辞書です。例えば「無愛想」というのは「媚を売らない」、「悪趣味」は「自分の世界を持っている」、「臭い」というのは「フェロモンがあふれ出ている」、いや面白いですね。中でも私が感動したのは「引きこもり」です。「蝶になる前の蛹、ないし、戦士の休息」とありました。いや実に前向きです。一般的にはマイナスイメージの言葉を、積極的に評価しているところがとっても新鮮ですね。
 ところで、イエス・キリストの言葉のなかにも、一般的には残念なことを、素晴らしいこととして紹介している個所が聖書の中に出てくるのです。イエス・キリストはこう言われたのです。

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるから。」

自分のありのままの姿に気づく

 一般的には悲しむ者は不幸ですね。なぜなら、悲しみとは何かを失った時に生じる感情だからです。自分にとって大切な何かを亡くすときに湧き上がって来る気持ちが悲しみですね。喪失していることを幸いと言ってしまうのは残酷なことではありませんか。しかも、ここでいう幸いとは「祝福」という意味なんです。ではいったい神様の目に祝福されている悲しみとは、どんな悲しみのことをさすんでしょうか。それは、神の前に自分が不真実で、嫉妬深くて、不誠実で、汚い考えが次々と湧いてくることを悲しむ悲しみなんです。つまり、自分が罪人であることを悲しむ悲しみなのです。もっと言えば、神の国、天国にふさわしくないがために、そこに入ることが出来ないことを悲しむ悲しみなのです。金の無い悲しみは、金が入ってきたら消え去ります。病気であることの悲しみは、健康になれば癒されます。大切な人の喪失も時間とともに少しずつ癒されていくことでしょう。しかし、自らが神の前で罪人であるという現実は、金によっても、健康によっても、また時間によっても決して覆ることがないのです。この神の前に正しくありえない自分自身のありようを悲しみに思える人は、すでに神から祝福されているのだとイエス・キリストはおっしゃるのです。では自らが罪人であることを悲しみに覚えることがなぜ祝福なんでしょう。三つのポイントでお話ししたいと思います。

自分に解決する力がないことを知る

 第一に、キリストを受け入れる準備が出来ているので幸いなんです。
 昔日本では、覚醒剤が疲労回復のスタミナドリンクとして普通に薬局で売られていた時代がありました。その覚醒剤のことを「ヒロポン」と言います。これはどんな疲労もポーンと取れるのでヒロポンと名付けたんだそうです。確かにこれを服用すると疲れが吹っ飛んで集中できるんですね。それで初めは医療関係者の間で使われ、また試験勉強の学生たちがこれを使ったのです。あまりに効き目があるということで、やがて軍がこれに目をつけ、徹夜で働く軍需工場の作業員や、夜中に活動する兵士に支給するために大量に製造したんです。戦後、軍が在庫として抱えていたヒロポンは一般市中に出回りました。これさえ飲めばどんな悩み、どんな痛みも治ってしまうということで50万人以上の人々が服用したのです。しかし、それは人を癒す薬ではありませんでした。れっきとした麻薬なんです。しかし、これは薬なんだと言って手放さない人々が沢山いたんです。彼らの末路は悲惨でした。ヒロポン中毒にかかっていたからです。ヒロポンが人を元気にする良い薬だなどと言うのは迷信でした。迷信にすがってそこから離れなかった人は滅んだのです。
 実は、罪からの救いについても、様々な迷信がまかり通っています。真面目に生きていたら誰でも天国行けるとか、人間は自分の努力や、良い行い、修行や修練を積めば、誰でも罪許されて天国へ行けるという、そのような迷信です。迷信にすがりついている限り本当の解決はありません。迷信を捨てた人はいったんは途方に暮れるんです。自分で自分を救う力がないということに気付くからです。しかし、自分には解決の力が無いことを認める人こそは神の救いに近いんです。なぜならキリストを受け入れる準備が出来ているからです。

神の私たちに対する思い

 第二に、神さまは罪におののき悲しむ人を、深く愛して憐れんでくださる方だからです。私たちはどんな人に心寄せるでしょう。勢いのある人、権力のある人、富栄えている人、自信満々の人、神なしに十分輝いていられるような人ではありませんか。しかし、神様は、心打ち砕かられた人、プライドを砕かれ神の前に遜る人、罪におののいて憐みに渇く人をこそねぎらってくださる方なのです。
 ところで、大規模災害などで、一度に大量の負傷者が出た場合、「トリアージ」という方法が取られます。トリアージというのはフランス語で「選別」という意味があるんですね。これは、限られた医療資源で、できるだけ沢山の人々を救出するための知恵なんです。具体的には、負傷者の優先順位にしたがって四色のカードを付けて分けるんですね。最優先は赤のカードでこれは重症者です。黄色のカードは、今すぐ治療しなくても死なない人です。緑色のカードは、ドクターが見なくてもかまわない軽傷者です。そして、黒は、今から手当てしても助かる見込みが全くない人です。一秒を争う緊急医療の現場では、助かる見込みのある人の中で、最もひどい傷を負った人ほど優先されるんです。そして、これは聖書の救いについても言えることなのです。神さまの目には、自らの罪を自覚し、悲しみに心砕かれる魂の重症者にこそ恵みが流れ込んで行くのです。だからこそ悲しむ者は幸いなのです。その人は神による赦しの慰めをいただくことが出来るからです。

神さまが持っている解決方法

 第三に、神さまは悲しみの原因となっている罪をキリストによって完全に赦すことがお出来になるので、悲しむ者は幸いなのです。ところで「慰め」とはどういう意味でしょう。日本語の辞書では、慰めとは「慰めること」と書いてありました。まあこれでは説明になってないんですね。そこで「慰み」という項目を見てみるとなんと「なぶりもの」と書いてありました。これではますます慰められません。しかし、聖書の語る慰めとは何なのでしょう。それはギリシャ語で「パラカレオ」という言葉なんです。この言葉の直訳は「そばに寄り添って必要な援助を与えること」、これが聖書の言う慰めなのです。そしてキリストの慰めは実にそのようなものなんです。
 この方の慰めは決して人の邪魔にはなりません。なぜならこの方は、あなたの罪の悩みを心底理解できる方だからです。なぜ理解できるんでしょう。あなたの罪をその身に背負って、あなたの代わりに罪の刑罰を受けて下さったからです。キリストはあなたの罪のために十字架の上で死んでくださったんです。そして、三日目によみがえってくださいました。そして、あなたが息を引き取るその最後の瞬間においても、あなたの傍らにいて、必要な信仰も希望も平安をも与えてくださる方なのです。
 どうぞあなたも、真の慰め主にして、救い主であるイエス・キリストを心に受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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