「どうせ私なんてという前に」
ある男の人が、どこに行っても文句ばっかり言われるんです。取引先に行っても、また家の中でも。そんな彼が、自動販売機でジュースを買ったとき「ありがとうございました」という声を聞いて慰められるんですね。それから彼はどんなに文句を言われても、その自動販売機に行って「ありがとうございました」という言葉を聞いて元気をもらっていくんですが、ある時、いつものように自動販売機の所に行くんですが、その自動販売機に落書きされているんです。彼は何とも悲しくなってその落書きを消して、そして自動販売機を抱きしめて去ろうとするんです。買わずに背中を向けて歩いて行くんですが、その時、「ありがとうございました」という声が聞こえるんです。驚いて振り向いたら、誰か別の人がジュースを買って、その自動販売機がお礼を言っていた、というおちなんですね。それを知ったうえでも、彼は何となく心が励まされて、笑顔になって、スキップしながら去っていくというものなんです。
あなたを励ます創造主からのメッセージ
今、私たちは多くの不平不満、お前なんて必要ない、というメッセージを聞く時代に生きてるではないかと思うんです。もし自動販売機の「ありがとうございました」に心励まされ、勇気付けられるとしたら、この聖書の言葉はあなたに元気を与え、勇気を与え、励ましを与える神からの言葉です。どうせ私なんて、どうせ俺なんて、と言う人に対して神の言葉、聖書がどのように語っているか、今日三つのポイントで皆さんにお伝えしたいと思います。
自己憐憫に打ちひしがれた男
聖書のヨハネの福音書5章というところに、自己憐憫のかたまりのような男が出てきます。この自己憐憫のかたまりのような男にイエス・キリストがどのように語られたのか見て行きましょう。
まず一つ目のポイントは、捨てられたあなたのところに来てくださるキリストということです。この男は、38年間病気で、ベテスダの池というところに伏せっていたと書いてあります。親からも見捨てられ、家族からも見捨てられ、友人からも見捨てられた男。最初は病気の世話をしてくれる人がいたかもしれないけれど、38年間もほったらかしにされている男。そしてこの池が時々揺れた時、一番に入って行ったら治るという迷信のようなものを希望にして、その池のほとりでたたずんでいる男。そんな男のところに祭の日キリストが来られたと言うのです。
創造主はあなたを見捨てない
年末に私は一本の映画を見ました。世界で評判の映画だというのですが、『The horse of Fukushima 福島の馬』というタイトルです。ミラーズクエストという馬が主人公なんですが、4戦0勝、獲得賞金0円。競走馬としては通用しないということで、福島県南相馬市に輸送されます。食肉用となるために待っているとき、あの3・11が起こるんです。生き残ったミラーズクエスト。ところが福島第一原発事故が起こって相馬市にほったらかしにされます。放射能を浴びたので食肉用にもならないという状態になります。そして南相馬市でずっと伝統行事である「相馬野馬追」というその神事に出るために、ミラーズクエストは生かされることになります。ところがこの祭りに出た後も、このミラーズクエストに待っていたのは不浄、汚れた馬という焼印でした。
この馬を見て私は、この38年間ベテスダの池というところに伏せっていた男を思い出すのです。競争社会で負けました。人の役に立つことも出来なくなりました。存在自体が不浄なものです。私たちの社会は自分たちの都合で正義を決める社会です。競争社会で勝てない、人の役にも立てない、人に害を及ぼすとなったら当然抹殺されて当たり前の存在になるんです。この男は社会から抹殺され、見捨てられた男です。ところがこのミラーズクエストに一人だけ寄って来る存在があるんです。それが馬主です。社会も周りの人たちはみんなこのミラーズクエストを「殺せ殺せ」と言うんです。ところがこの馬主は「殺すわけにいかん」と言うんですね。オーナーである存在は、どんなに人が見捨てても、自分の馬を見捨てることできないのです。キリストはこの男のところに来てくださいました。社会が見捨てても、親が見捨てても、友が見捨てても、オーナーである神はあなたを見捨てることが出来ないんです。みんなが自分を捨てて逆方向に行くときに、あなたのところに来てくださる方キリストがおられます。
あなたの声は聴かれている
二つ目のポイントは、あなたの声を聴いてくださるキリストということです。この男にイエス・キリストは声をかけます。「よくなりたいか。」38年間伏せっている男に、よくなりたいかとキリストは声をおかけになりました。この男は当然「よくなりたいです」と答えることが期待されるように思うんですね。ところがこの男は、その「よくなりたいか」という言葉に対してこういう風に言うんです。「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」まあ要はこう言ったんですね。誰も私を助けてくれる人いませんし、私なんてもうどうせだめなんです。この男はよい答えをすることが出来ませんでした。
内にある叫びも聴かれている
もし会社で「君を、今度重要なプロジェクトに入ってもらおうと思ってるんだけど、どうだ。」と言われたときに、「いやあ、どうせ私なんてだめです」と言うそんな人を会社の上役はプロジェクトに入れるでしょうか。ところが聖書は不思議なんです。こんな自己憐憫の言葉しか返すことのできないこの男にイエスはこうおっしゃいます。『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」するとその人はすぐに治って床を取り上げて歩き出した。』私たちは良い質問に良い答えをしたら良い結果が伴うと思い込んでいます。ところがあなたの声を聞いてくださるキリストはその声で十分なんです。自己憐憫の声で、不平不満の声で、自分なんてダメだという声で。その声を聞いてキリストは立って歩けとその人を立たせていくのです。正しく祈れない方に聖書はこう言っています。何と言うかではなく誰に言うかだ。私たちは模範解答を言えば祝福されるのではありません。聖書の神は誰に語りかけるか。あなたの声を聴いてくださるキリストは、あなたの声を、あなたの愚痴を、あなたの言い訳を聞いて、それでもあなたを祝福しようとしてくださる神なのです。
あなたに用意された独自の祝福
三つ目のポイントです。あなたを活かしてくださるキリスト。
ジリアン・リンという女性がいます。この女性が小学校のとき、先生に発達障害だと言われるんです。お母さんが呼び出されて、「この子は落着きがありません。提出物の期限を守りません」と言われます。「この子は何を言ってもずーっと体を動かしていて集団行動が出来ないんです。」そんなふうに言われたお母さんは落ち込んで専門家のお医者さんに相談します。するとお医者さんはこのように結論付けるんです。「お母さんちょっとこの子を見ていただけますか。」そう言ってラジオのスイッチを入れて部屋を出ます。そのラジオの音楽に合わせてジリアン・リンが躍り出すんですね。「お母さんこの子は発達障害なんかじゃありません。ダンサーなんです。ダンススクールに通わせてあげてください。」お母さんはこのお医者さんの言葉を信じてこのジリアン・リンをダンススクールに通わせます。そのジリアン・リンがオペラ座の怪人の振付師になっていくんです。もし発達障害で薬漬けにしていたらと思うと恐ろしいことになると思うんです。
あなたを活かしてくださるキリストは、誰が見捨てても見捨てないだけでなく、声を聞いてくださるだけでなく、その人の特徴を活かして、素晴らしい祝福を世界にもたらすことのできる方なのです。あなたを活かしてくださるキリストがおられるのです。この方に信頼してください。心からお勧めいたします。