新約聖書
 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
(ヘブル2:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.719 22014年1月5日

「作品を完成なさる創造主」

あけましておめでとうございます。高原剛一郎です!

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 今年も聖書と福音をよろしくお願いします。
 さて、お正月というと、やはりご馳走を食べる機会が多いですね。この御馳走とか、或いは、御馳走様という食後の挨拶の由来はなんでしょう。
 馳走というのは元々駆けずり回ることなんですね。それに丁寧語の「御」と尊敬語の「様」をつけて御馳走様と言うんですね。素敵なことばです。素晴らしい料理を出すために、客の知らないところで駆け回ってくれた人への感謝のことばであるからです。目の前にある料理への感謝ではなく、その料理を作ってくれた料理人の労苦に思いを馳せることばですね。作品に対してではなく、作者をほめたたえることばなんです。

ヘレン・ケラー

 ところで、二十世紀の偉人の一人にヘレン・ケラーという人がいました。2歳の時に高熱を出し、その後遺症で見ることも、聞くことも、話すことも出来なくなった三重苦の女性です。しかし、サリバン先生という家庭教師をとの出会いを通して、やがて彼女は指文字でことばを覚え、話すことすらも出来るようになっていくのです。
 さて、彼女は長らく森の中にある家に住んでいました。あるとき一人の訪問者がインタビューのためにやってきたのです。それでヘレン・ケラーは、「森はどうでしたか」と尋ねるのです。それに対して客の言ったことばは一言、「別に」というものであったのです。彼女はそのことばに衝撃を受けるんですね。森には自分が見たいと思っている大木や、聞きたいと願っている鳥のさえずりがここかしこにあるんです。しかし、この人物には何にも心に残らなかったんですね。森なんだから木があるのは当然、鳥が居るのも当たり前じゃないかと思っていたので、心に感動が湧いてこなかったんです。そこにあるのが当たり前と思ったら、どんなに不思議なもの、美しいもの、見事なことを見ても、大事なことを見落としてしまうんです。

自然界を創造された造り主

 この自然界は存在していて当たり前のものではありません。美味しい御馳走には腕の良いシェフがいます。そして美しい自然界には美しい自然界を創造された造り主がおられるのです。

 日本の総合繊維メーカーに旭化成という会社がありますね。この会社の中興の祖に宮崎輝(みやざき かがやき)さんという方がいらっしゃいました。彼はアメリカにいたとき、ある新聞記事をきっかけに、自然界の不思議に気づき始めます。海の中にいる魚はなぜ塩辛くならないんだろう。生まれてから死ぬまでずっと塩水、海水の中につかり続けているのに、生きてる魚の肉は少しもしょっぱくないのはなぜなんだ。」彼は魚の皮に秘密があるということを解明し、やがてイオン交換樹脂膜を開発するのです。これは海水から塩だけを自由に取り出す技術なんですね。これが旭化成のドル箱になって会社は一気に大きく成長することになるんです。この画期的な技術は、自然界に生息する魚類の仕組みを工業的にコピーしたものなのです。つまりこの自然界には画期的な知恵が満ちあふれているんです。正に自然界は知恵に満ちた作者の存在を裏書きするものであるのです。この自然界の作者を聖書は創造主、神とお呼びするのです。
 日本人は偉大な自然界という作品そのものに畏敬の念を感じて頭を下げるのですが、本当に礼拝しなければならないのは、その偉大な作品を造られた作者なのではありませんか。

 聖書はこういっています。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して、全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
 実に神とは、万物の存在の原因である方なのです。そして、この万物の中にはあなた自身も含まれているのです。あなたは神に造られた作品なのです。ところが人は、自分の作者から離れ、神などいないかのような考えで生きているのです。本来の目的を忘れて、自己中心で生きています。作者との関係を断ち切って生きる結果、人は死ぬものとなってしまったのです。

漫画界の巨匠 手塚治虫

 私は先日、手塚治虫さんの伝記を読み大変関心致しました。日本が生んだ漫画界の巨匠ですね。私も手塚まんがの大ファンでいまだに心に残る作品がいくつもあります。
 ところで手塚さんは、こと漫画に関しては完璧主義者で、しばしば原稿を書き直すことで有名でした。雑誌に連載されていたページと単行本では絵が違うなどということもしょっちゅうあったのです。

作者は作品に心血を注ぐ

 ある日のこと手塚さんから少年チャンピオンという雑誌の編集者に緊急連絡が入ったのです。「さっき渡したブラックジャックの原稿を戻して欲しい。書き直したいから。」電話を受けた担当者は、思わずのけぞります。何しろ原稿の完成が一番遅いのが手塚治虫でそのため印刷の現場では、いつも大変な苦労をしていたのです。今回もようやく原稿を届けたばかりで、すでに印刷機は回っていたんです。しかし作品について手塚治虫がやり直しを言い出したらまず彼は一歩も引かないということが分かっていました。それでしかたなく、印刷所に飛んでいき、怒り狂う現場の人たちに平身低頭で頼み込んで原稿を回収したんです。大急ぎで手塚の事務所に行き、原稿を渡します。すると手塚治虫はうなづきながら、原稿に手を加えます。一体どこをどう書き変えたんでしょう。何と彼が書き加えたのは、葉っぱ3枚です。主人公の背景にある木の枝に、それまでなかった葉っぱを3枚さらさらと書いたんです。その葉っぱがなくてもストーリーには何の関係もありません。呆然とする編集者。しかし、手塚治虫はこういってます。「創作に携わる者が完璧を目指さなくてどうするんですか。他の人の目には充分でも、作者の目に完璧でないなら、作者はそれを完璧にするためになんだってする。心血を注ぐ。」というのです。それは作品を愛しているからこそ、出来ることでした。

素晴らしい神のプラン

 同じように、罪によって欠けた作品に成り下がってしまった人間を、作者である神さまは、回復と、完全にもっていきたいと心底願っておられるのです。そしてそのために救いの創始者イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の上で多くの苦しみを通して、全うして下さったのだというのです。その多くの苦しみは、本来私が受けるべき罪の刑罰の苦しみでありました。この罪の刑罰を私の代わりに受けて死んで下さった方、そして死んで3日目によみがえって下さった救い主がイエス・キリストなのです。どうぞあなたもこのイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れて下さい。そして、神様のプランされている素晴らしい栄光の道へ、是非進んで下さい。心からお勧めしたいと思います。

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