「地に落ちた種がもたらす祝福」
先日、私は大変なドジをしてしまいました。掃除中に携帯電話をバケツの中に落としてしまったのです。すぐ拾い上げて、使えるかどうか電源を入れてみる、これをしてはだめなんです。水に濡れた電子部品がショートして完全に壊れてしまうからです。とっさにそのことを思い出した私は、まず電池を抜き、できるだけ水気をとりました。ただ中に入ってしまった水を出すのは簡単にはいきません。いろいろな人の知恵を借りました。密封容器に乾燥材と一緒に入れるとか、ポンプで真空に近い状態にするとか…。特に私が試みた方法はこたつの中に入れるというものです。温めること1週間、恐る恐る電池を入れて、電源を入れると…。大成功です。見事、回復いたしました!
このように私たちがしでかす失敗や愚かさには、自分で繕ったり、挽回ができるものもあります。人から助けてもらって何とか解決できることもあるでしょう。しかし、自分ではどうすることもできないこともあるのも事実ですね。
自分の真の姿に気づく幸い
実は、聖書には、見えるところ、見えないところで行ってしまった悪い行い、心に抱いた良くない思いなどを人間は自分の力で清めることはできない、とはっきり書かれています。自分で自分を清めようとすればするほど、自分の不完全さに気づかされるのです。ですから、そういう人ほど謙遜に自分の弱さを認めます。
しかし、自分の弱さを素直に認めるとき、聖書が語る「解決の道」のスタートラインに立つのです。神が用意した「救いの道」があります。神は、人間の力でできることは、人間に任せます。できるのにやらない、という怠け心を神は喜ばれません。でも、どうしてもできないことを「しなければならない」とは神は言われないのです。「福音」というのは「良いお知らせ」という意味です。神は人間にはできなくなってしまったことを、神ご自身がしてくださいました。だからこそ、「福音」なのです。今日もこの福音について考えていきましょう。
次のようなイエス・キリストのことばがあります。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
これは植物にたとえてイエスに迫りつつあった死とその後もたらされる祝福について語ったものです。
三つのポイントで神の祝福について考えましょう。
種のシステムに込められた祝福
まず、神さまの祝福の方法です。
今から60年ほど前、ハス博士と言われた大賀一郎博士が2000年前のハスの種を発芽させることに成功しました。2000年前と言えば日本歴史では弥生時代、聖書で言えばイエス・キリストがこの世界におられた頃にあった種です。博士の発芽させる技術もすごいですが、種そのものが持つ力も驚くべきものですね。実は、大賀博士は明治の有名なクリスチャン内村鑑三の弟子でした。彼は、植物が子孫を生み出し、増やす方法として「種」というシステムを創造主が造られたということを信じていました。創世記には、植物が創造されたときのことが書かれています。そこには「地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種のある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て、よしとされた。」とあります。建築学科に進もうとした彼に「人の造る建物ではなく、神の造る植物」を研究するように勧めたのは内村鑑三です。大賀博士の墓には「ハスの花に 神の栄光をたたえて 大賀一郎兄 ここに眠る 復活のラッパの鳴らん時まで」と刻まれているそうです。彼は生涯に渡り、植物を通して神の祝福のみわざをほめたたえていたんですね。
神さまは、人間に救いと祝福をもたらすため、この地上にイエス・キリストを「祝福の種」として送ってくださいました。一時的な喜びや人間的な満足ではなく神の祝福を、神の方法でもたらそうとしてくださったのです。
一粒の種となって死なれたイエス
次に、祝福の鍵はイエスの死にある、ということです。 イエスは「一粒の麦となって地に落ちて死ぬようになる」と予告されました。それは私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかるという意味です。それは人間の発想ではありません。神の方法です。イエスがこの地上に来られる何百年も前から旧約聖書の中で預言という形で何度も語られてきた神の計画でした。自分の罪を素直に認め、自分では解決できないことを認め、イエスの身代わりの死を信頼するものは、イエスのゆえに罪が赦されるのです。十字架の後、三日後にイエスは死を突き破って復活されました。死んだ後に初めて現わされる新しいいのちです。その新しいいのちをイエスを信じるものにも与えると聖書は約束しています。イエスの十字架と復活を信じ受け入れ、新しいいのちを頂いて生きる人々がこの2000年間、多く興されてきました。まさにイエスが種となって十字架で死ぬことによって、豊かな実を結んだのでした。
神が用意されら永遠のいのち
最後に、究極の祝福は永遠のいのちである、ということです。
今年のNHK大河ドラマは「八重の桜」でした。先日、新島襄が亡くなった場面が放映されました。同志社大学設立に奔走していた46歳の新島襄を襲った早すぎる死。しかし、クリスチャンの彼は愛する妻である八重に最後の力を振り絞って語ったのです。最後の言葉はこうでした。「狼狽(ろうばい)するなかれ。グッド・バイ、また会わん。」テレビの中では「狼狽してはいけません。グッド・バイ。また会いましょう。」と優しい語り口調でしたね。
クリスチャンにとっても、死は地上における別れであり、つらく、悲しいものです。しかし、それは永遠の別れではありません。神の救いに与った人は再び天で会うことができるのです。「また会いましょう。」と言えるのです。この素晴らしい天地を造られた創造主は、さらにすぐれた神の国を造っておられ、そこに導いてくださるのです。だからうろたえなくてもいい、心配しなくてもいい、と新島襄は語ったのです。これは空想の産物でも、単なる希望、憶測でもありません。復活したイエスが持っていた新しいいのちがその証拠です。
神が用意した想像を絶する祝福
死の問題を私たち人間は自分で解決することはできません。死の前には人は全く無力なのです。しかし、神には力があります。人間にとって「死」は永遠の別れをもたらし、永遠の裁きへの扉であったのですが、神は「死」そのものをイエスの死によって滅ぼしてしまわれました。神はイエスの復活を通して、今持っているものとは異なる全く新しくされたいのちがあることを明らかにしてくださったのです。みなさんも、今まで見たことなかった素晴らしいものを見て「すごい」と思ったり、今まで食べたことのないおいしい物を食べて「おいしい」と喜ぶことがあると思います。創造主は今まで経験したことのない、素晴らしい世界を用意して私たちを待っておられます。
是非、この救い主イエスを受け入れて、イエスの蒔いた種が実らせた祝福の実をみなさんも自分のものにしてください。死を前にしても失わない希望を持つ人生に入り、新しい年を迎えていただきたいと思います。