新約聖書
 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(1テモテ1:15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.716 2013年12月15日

「裁きをくい止めるイエス・キリスト」

 おはようございます。高原剛一郎です!

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 今年「アンパンマン」の作者、やなせたかしさんが亡くなられました。「アンパンマン」だけではなく、「てのひらを太陽に」の作詞家でもあり、エッセイストでもあり、童話作家でもある。まさにマルチタレントな方でした。ところで、彼のクラスメイトの一人に映画評論家の方がいたそうです。彼はどこの映画館に行っても「やあ。」と言ってただで入っていけるそうです。大好きな映画をいつでも観たい時に、何度でも観れる。しかも一切無料です。「ああ、なんてうらやましい仕事してるんだろう。」と、やなせさんは心底、友人をねたんでいたそうです。そんなある日のこと、ある雑誌社が「やなせ君、君も映画評論を書いてみないか?」と誘いがあったというんですね。念願の映画評論の仕事に就けると聞いたやなせさんは、二つ返事で引き受けるのです。ところがしばらくすると、どうにも辛くて辞めたくてたまらなくなっていったっていうんですね。というのは、もらえる報酬がほんとに少額だったそうです。まるで中学生のお小遣いみたいだっていうんですよね。それでいて、ずいぶん労力をかけて書かなければならない。さらに観たくもない映画まで観なければならなかったんですね。おかげで本職の仕事に使える時間がずいぶん少なくなって、四苦八苦することになるんです。あれほどうらやましがっていた仕事も、実際にやってみるとそれほどのものではなかったっていうんですね。

神が用意されている意外で偉大なもの

  私はその体験談を読みながら、嫉妬の正体が見えたような気がしました。私たちは自分がしたくてもできないことをしている人を見たり、自分が持ちたくても持っていないものを持っている人を見ると、不愉快な気持ちになります。ねたみの気持ちですよね。しかし、人は何かを持つと必ず何かを手放しているものです。何かを手放す代償として、別の何かを得ているんですね。私たちが誰かをねたんでいるとき、それはその人の得た部分だけしか見ていないのではないでしょうか。その人の持つごく一部のみに着目して、なんてうらやましいんだ、と思ってるんです。しかし、その人はそれを持つのと引き換えに、別の何かを失くしています。逆に言うなら、私はその人たちが持っていない何かを持っている可能性が大いにあるんです。いや、私はどう考えても何もない、私は全部失って、乏しくて、みじめで絶望的だ、という方がおられたら、どうぞ聞いて下さい。神はあなたに想像を絶する偉大なプレゼントを与えて下さったのです。それは、イエス・キリストにある永遠のいのちです。聖書の中にこう書いてあります。  

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

私たちが次に行く世界

 私たちが今持っているものはすべて、いつか手放さなければならないものばかりですね。家も土地も株券も、会社の地位や健康、自分の家族ですらも死とともに手放していかなければなりません。たくさん持ってる人ほど、たくさん手放していかなければなりません。この世で何かを持っても、それは本当には持ったことにはなっていないのです。一時的に触ってるだけです。全部失っていきます。しかし、決して失うことのない世界があるんですね。それは次の世界。天国という世界です。天国では死がありません。別れがありません。争いも涙も罪も悲しみもないのです。この天国を得るということこそが、本当の意味で何かを得たことなのです。しかし、この天国は罪ある者が入ることはできない、聖い神の国なのです。罪を持ったままでは、人は永遠の裁きの世界に下らなければならないのです。キリストは私たちをこの永遠の地獄から、永遠の天国へと救い出すためにこの世に来て下さったのです。

命がけの執り成し

 昔、万葉集の研究者で、犬養廉という学者がいました。彼は東大の国文科の学生の時、学徒動員で旧満州西部に送られ、小隊長として敗戦を迎えるのです。昭和20年の夏、敗戦の時のことです。ソ連は日本との条約を一方的に破って、旧満州に攻め込ん来たのです。無敵を誇っていた関東軍はちりじりばらばら。なんと、軍の上層部だけが敗戦の数日前に全部隊を現地に残して、飛行機に内地に逃げ帰ったのです。残された部隊は、命令系統がめちゃくちゃです。犬養小隊長は部下を指揮して、その地方の在留日本人を一か所に集めました。そして夜はたき火を焚いて、現地の人々からの暴行、略奪から邦人を守ったのです。やがて苦心の末、トラック十数台を用意し、数百人の日本人を大連まで送ることにしたのです。事前に情報が一切漏れないように、極秘のうちに計画し、そして真夜中に出発しようとしたその時、なんと、町の門の外に何万人という現地人が、手に手にかまを持って、今にも襲いかかろうとしていたのです。どういうわけか情報が漏れていたのです。こっちは武器がほとんどなく、ただただ行き詰るにらみ合いが続いたのです。
 ところが突然、誰かが「門を開けろ!」と大声で叫んだのです。それは帰国を断って、ここに残ると言った、たった一組の日本人夫婦、鈴木さんでした。彼らは、旧満州にキリストの福音を伝えるためにやって来た日本人宣教師だったのです。彼らは毎日毎日、現地の人々を一軒一軒訪ね歩いて、キリストを宣べ伝えていたのです。その鈴木さんが殺気立ってる数万人の人々をかき分けて、町の門の上によじ登ったのです。そして大声で「門を開けろ!」するとどうでしょう。人々は彼の声に従い、門を開け、道を譲っていったのです。日本人に反発していた人々でしたが、鈴木さんにはどうにも手が出なかったのです。この二人の老夫妻を心から尊敬していたからです。やがてトラックは次々に門を出て行きました。犬養小隊長は、銃から手を離して敬礼しました。するとよれよれの服のまま、門のてっぺんでちぎれんばかりに手を振っている、クリスチャンの老夫婦の姿が見えたというのです。彼らは、命の恩人です。興奮状態の群衆が鈴木さんのことばに従ったのは、日ごろから彼らを敬愛していたからだけではなく、現地に踏みとどまって、骨を埋めるという覚悟を見たからです。この鈴木さん夫妻の本気が、怒り猛る大群を押し止めたのです。

私たちの真の救い主イエス・キリスト

 罪を犯した人間の将来は、聖書によると、もう決まっています。死後に裁きを受けることです。しかし、人間に押し寄せてくるこの裁きの波を、くい止めることのできる方が、たった一人、おられるのです。その方こそは、イエス・キリストです。キリストは十字架に上り、踏みとどまり、暗黒の中で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」どうしてキリストは見捨てられたか、お分かりですか?あなたが罪の裁きから救われるためです。この叫びは、救いの門よ開け、という救い主の号令でもあるのです。
 どうぞあなたも、このイエス・キリストによって切り開かれた救いを、受け取って下さい。そして本当の意味でクリスマスを体験なさってください。心かお勧めしたいと思います。

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