新約聖書
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
(ヨハネ9:2,3)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.713 2013年11月24日

「苦難の意味」

 おはようございます。尼川匡志です!

 先日、テレビでグルメレポートをしている方からこんな話を聞きました。二つのソフトクリームがあって、一つはチャイの味、もう一つがマンゴー味だったそうです。事前打ち合わせでは、初めにチャイ味を食べて「チャイの風味が口いっぱいに広がりますね」というコメントを言うはずでした。いざ本番、手渡されたのはマンゴー味。その方は一口食べて「チャイの風味が口いっぱいに広がりますね!」と元気よく言ったそうです。色は誰が見てもマンゴー。もちろん取り直しです。チャイ味とマンゴー味、明らかに味が違うのにどうして分からなかったんですか、と聞くと「そう思い込んでいたから」という答えが返ってきました。嘘のような本当の話です。確かに人の思い込みには驚かされます。ないものがあるように見えたり、あるものがないように見えること。人の思い込みで結構起こるんですね。

カット
 さて、私たちの目の前に広がっているこの世界は一つです。しかし、この世界を見て、ある人は「全ては偶然に出来た、神なんて存在しない」と言い、ある人は「万物の創造者である神が、意味と目的を持って創造した」と言います。さて、どちらかが真実で、どちらかが思い込みなんですね。どちらかが本当で、どちらかが嘘です。私たち日本人の大部分は神なんていないが正しくて、神がおられて、この宇宙も、地球も、そして私たち人間も意味と目的を持って造られたんだ、ということがばかばかしい作り話だと信じておられるのです。さてあなたはどうお考えでしょうか。

今与えられている関係は偶然か

 あなたが今一番大切に思っている人の顔をちょっと思い出してみてください。妻、夫、子供、父、母、兄弟、恋人、親友、幼馴染どなたでも結構です。あなたが今、この人は私にとってかけがえのない人だと思われる方のお顔です。その人とあなたとの素晴らしい関係は、たまたま偶然できたんでしょうか。もし偶然なら別にその人でなくても良かったことになります。代えがきくことになるんですね。たまたま偶然そうなったにすぎないんです。しかし、私は私の妻も、子どもたちも、父も、母も、親友もかけがえのない人たち、決して代えがきかない人たちだと思っています。この関係がたまたま偶然に生まれたとはとても考えられないんですね。
 皆さん考えてみてください。あなたが神はいないと言われるなら、あなたの周りのすべての関係は偶然の結果であり、その人たちはかけがえのない存在ではなく、代えのきく人たちということになるんですね。これは私たちの人間関係に限ったことではありません。ありとあらゆることについて言えるのです。神がおられ、私を意味と目的を持って造られた。これが事実であるなら、私がこの時代、この国、この性格、この能力で生まれて来たことは決して偶然ではありませんよね。そこには大切な意味と目的があると考えてもおかしくないのです。

人類が抱きつづけてきた疑問

 二千年前のイスラエルに、一人の生まれつき目が見えない人がいました。福祉も生活保護も何もない時代です。この人は生きるために物乞いをする以外方法がありませんでした。ある時のこと、この人のそばをイエス一行が通り過ぎようとしていました。その時、誰ともなく弟子の間からこんな質問がイエスになされたのです。
 「この人が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 この盲人にとっておそらく何度も耳にした言葉であり、また彼の心を踏みつけるような残酷な言葉でした。自分がなぜこのように盲目で生まれたのか、なぜ自分は苦しみを背負って生きなければならないのか、その原因は何なのか。弟子たちは、この人の罪ですか、両親の罪ですかと聞きました。どちらであっても今の彼にとってはもはやどうすることも出来ないことです。

人生に意味を与えておられる創造主

 自分の苦しみの原因をいくら詮索したところで、どうにも出来ない、過去は変わらないんですね。仮に、もしその原因が分かったとしても、そのことから生まれてくるのは、原因を作った者への恨みだけです。私たちが生きている世界には、原因を知ることが出来ない苦しみや、悲しみや、困難が多くあります。大きいものもあれば小さいものもあるでしょう。誰もがこのような苦しみや悲しみを持って生きているように思います。何不自由なく、この世の成功者に見えるような人の心の中にも、なぜこの両親のもとに生まれたのか、なぜこんな体になったのか、なぜこの病気を背負ってしまったのか、なぜこんな性格になったのか、なぜあの時、あんな事件、あんな事故に巻き込まれたんだろうか、なぜあんな人と出会ってしまったのか。そんなことが何一つないという人はおそらくいないと思うんですね。そしてその原因は誰にも分かりません。それは、私たちがなぜこの世界に命を持って生まれて来たのか、なぜこんなに素晴らしい体を与えられているのか、なぜ目が見え、話せ、聴くことが出来るのか、なぜ記憶することが出来るのか、なぜ立って歩くことが出来るのか、その原因が分からないのと同じです。このことは私たち人間には知ることが出来ないんですね。私たちが考えなければならないことは、その苦しみの原因ではなく、そのことに意味があるのかどうかです。私たちの人生に、本当に意味と目的があるのかということではないでしょうか。いや、私の人生の背後に意味を与える神が存在しているのかどうかということではないかと思うのです。

苦しみが喜びに変えられる

 さて、話を生まれつきの盲人に移したいと思います。弟子たちの質問にイエスは答えられました。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

 どういう意味でしょうか。この後、イエスは彼の目に泥を塗られ、「シロアムの池で洗え」と言われました。彼はその言葉の意味がよく分かりませんでしたし、その結果何が起こるのかも知りませんでした。ただイエスの言葉を信頼し、それに従ったのです。そしてシロアムの池で洗った時、彼の目は見えるようになりました。彼は今まで、自分が盲目で生まれたことは不幸なことでしかないと考えていました。しかし、その時知ったんです。この苦しみは喜びに変わるものであったことを。そして自分の人生を変え、その人生に新しい意味と目的を与える方がおられる、自分の苦しみ、悲しみの上に希望の光を差し込ますことが出来る方がおられるということが分かったのです。

神のことばに信頼してみる

 人生に起こるべきすべての原因を私たちは知ることが出来ません。しかしこの世界に神が存在し、あなたがその神に生み出されたのであるなら決してあなたの人生は偶然ではないんです。たとえ今意味が分からなくても、苦しいだけに見えても、必ずそこに意味と目的があるのです。希望の光が見えてくるんですね。そして、そのことをはっきり知るために必要なことは、この人のようにイエスの言葉に従ってみることです。その時あなたの人生は変わります。そして人生の色々な出来事の持つ意味が分かり始めるんです。ぜひイエスの言葉に従ってみてください。心からお勧めいたします。

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